ここから本文です。

雑司が谷鬼子母神

鬼子母神 江戸のおもかげ・雑司が谷

豊島区立郷土資料館へようこそ。エレベーターを降りたロビーは区内で最もよく江戸のおもかげを残す雑司が谷鬼子母神の境内を模しています。このロビーは資料館の入口であると同時に豊島区域の昔をしのぶ入口でもあります。床机(しょうぎ)に腰かけておくつろぎください。

ロビー

鬼子母神は広く子授け、安産、子育ての鬼神として知られています。しかし、鬼子母神は当初、他人の子を取って食べる邪悪なものであったのを、仏によって教化され、仏の守護神になったとされています。普通「鬼子母神」と書きますが雑司が谷鬼子母神は「角(つの)」がないと伝えられ、正式には鬼の字にツノがありません。この雑司が谷鬼子母神堂が創建されたのは縁起(えんぎ)では1666(寛文6)年とされていますが、1976年から1979年にかけて行われた修理工事の結果、1664(寛文4)年の創建であることが判明しました。1561(永禄4)年、現在の文京区目白台付近の「清戸(せいど)」の畑より、鬼子母神が出土し、大行院(現在の法明寺内の一寺院であった)領の武芳稲荷の深森を切り開いて像を安置し、鎮守(ちんじゅ)としたのがはじまりで、1666年に安芸の太守・広島藩主浅野光晟(みつあきら)の室自昌院が宝殿を造立しました。

正面の壁面写真は明治末期の鬼子母神境内を画家昇雲が描いたもの(1911年刊「東京近郊名所図会」第17巻・東陽堂より)です。うっ蒼と茂る木々と掛茶屋がよく境内のふん囲気を出しています。正面右手の階段が”おんな坂”、左手の階段が”おとこ坂”と呼ばれていました。

鬼子母神堂(本殿・相の間・拝殿)は東京都の指定有形文化財となっています。また、境内の大イチョウ、参道のケヤキ並木も都の指定天然記念物となっています。右手パネルに小泉癸巳男作「鬼子母神榎並木」の版画が展示してありますが、正しくは欅(ケヤキ)並木です。

雑司が谷鬼子母神は宝殿が建立された江戸初期から多くの参詣人を集めました。門前には茶屋や料亭が建ち並び繁昌しました。その時期は享保期(1716年から36年)より文化・文政(1804~30年)ころといわれています。江戸町人が経済力を増し、商業が活発化した時期といってよいでしょう。したがって信心といっても物見遊山(ものみゆさん)を兼ねた参詣が多かったと思われます。それが一層門前の料亭などを栄えさせることになりました。1710(宝永7)年門前は寺社奉行に願い出て許され、区内最初の町屋になりました。

麦藁造りの”さんだわら”

この門前町屋の名物に色々な参詣土産と料亭がありました。麦藁(むぎわら)造りの”さんだわら”は”べんけい”とも呼ばれ、参詣土産の玩具をさし込んで展示販売したものです。江戸末期に編さんされた「江戸名所図会」所収の鬼子母神参詣図はロビー右手にパネル展示してありますが、それにはすすきみみずくと麦藁細工の角兵衛獅子(かくべえじし)、風車がさしてあります。真中の大きな風車は”看板”でしょう。当館の”べんけい”は風車、みみずく、蝶(ちょう)が復元展示されています。これ等の名物土産がいつ頃作られたものかは不明ですが、川口屋の飴(あめ)が17世紀前半、角兵衛獅子が中頃、風車が末期、みみずくは19世紀前半にはありました。蝶と芋田楽(いもでんがく)は明治から昭和初期にかけて流行したようです。「雑司ヶ谷詣」(ぞうしがやもうで)といえば鬼子母神詣の代名詞だったように風車・角兵衛獅子等も鬼子母神詣の象徴でした。

写真展示をした歌麿画「玄英の雑司ヶ谷詣」は「風流四季の遊」の1つとして享和期に描かれたもので、子を背負う男の髷(まげ)に風車が2本さしてあります。(玄英は冬の神)。広重画「雑司ヶ谷」(「江戸高名会亭尽」)は鬼子母神門前の料亭茗荷屋(みょうがや)を描いたものです。他にも耕向亭、藪蕎麦(やぶそば)は江戸中に有名でした。明治~昭和の料亭分布図は元高田町長、海老沢了之介著『新編若葉の梢(こずえ)』から採ったものです。茗荷屋が大門の脇にあったことが分かります。このような料亭を舞台に比較的富裕な町人が文人として活躍・交流し、地元の金子直徳(なおのり)・戸張喜惣次(とばりきそうじ)等を中心とする雑司ヶ谷文化を形づくりました。

更新日:2015年2月25日