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長崎アトリエ村

豊島区地域は、江戸時代と同じように近代になっても、東京市外の近郊農村といった性格が強いところでした。第1次世界大戦ごろから、産業の発達とそれに伴う都市への人口集中により、市外であったこの地域も都市化がすすんでいきます。豊島区地域は市外でありながら山手線が通り交通便利なところでしたから、すでに学校や社会福祉施設などが建てられていました。そこへ旧東京市内に住んでいた人や新たに地方から東京に出てきた人が、この地域に移ってきて住むようになり、人口がふえ、それにつれて商店も増加していきました。そのなかで、この近くでも、高級住宅地の開発がなされました。駒込の大和村がそれです。また目白の文化村も中産階級向けの住宅地を供給するものでした。この一方でスラムが東京市内から追い出されるようにして、豊島区地域にも形成されました。この地域の宅地化による人口増は1923(大正12)年の関東大震災後にいっそう激しくすすみます。

東京近郊の宅地化・都市化がすすんだ1920年代は大正デモクラシー期であり、自由主義的な社会・文化がうまれていました。都会にはモダニズムの文化が形成されはじめていました。住宅についても、全体としては和風ですが、1間だけ洋風の応接間を組み込んだいわゆる文化住宅が普及していきます。これらのモダニズムや洋風文化の流れは、戦時下となっていく1930年代にも底流として引き継がれていきます。

アトリエ住宅

1930年代に豊島区の西部にあたる旧長崎町を中心として、美術家向けの借家群であるアトリエ村がうまれました。これも、さきにみたモダニズムと東京近郊の都市化の流れのなかに位置付けられます。このアトリエ住宅は、赤いセメント瓦に木壁で、北側が15畳ぐらいのアトリエになっており、大きな窓と天窓があり、とてもモダンな家でした。しかし居室部分は狭く、1畳から6畳ぐらいで、多くは3畳から4畳半の間でした。それに便所と台所を兼ねた入口が付いているだけでした。家賃は居室の広さに応じて異なり、13円から22円ぐらいでした。アトリエ住宅は家のつくりからいうと、絵や彫刻を勉強する独身の学生向きに建てられたのです。

最初にアトリエ村がつくられたのは、要町(当時は長崎町字北荒井)で、1931(昭和6)年のことです。奈良次雄の祖母が、孫と同じように美術家をめざす人たちのために建てたものです。その後、他の人がその周辺に建てたアトリエ住宅もふくめて、このあたりは竹やぶが多く、すずめがよく飛んでくるため、すずめが丘アトリエ村と呼ばれました。

これにならって長崎の各所につぎつぎとアトリエ村がつくられました。その中で最も大規模なものは、長崎2丁目にあるさくらが丘パルテノン(アテナイのアクロポリス上にある殿堂)です。このアトリエ村はアメリカ帰りの資産家であった初見六蔵によって1936年ごろから建てはじめられ、1939、40年ごろにほぼ完成しました。そのころのさくらが丘パルテノンのアトリエ住宅は第1から第3にわかれており、合計で約60軒です。

長崎アトリエ村は、さくらが丘・つつじが丘・光が丘・緑が丘などという名前がついていますが、すずめが丘を除き、すべて谷端川ぞいの低湿地にあります。アトリエ村のほとんどは1930年代に建てられましたが、そのうち池袋に近いものの大部分は戦災で焼けています。逆に千早2丁目23・24番地、3丁目1番地は、戦後になって建てられたアトリエです。

アトリエの内部

はじめアトリエ村には絵や彫刻を学ぶ学生が集団で住んでいました。彼らはモデルを共同で頼み、創作活動をしたり、時には朝食や夕食を共同自炊している場合もありました。またアトリエや池袋の喫茶店などで、芸術論をたたかわせたり、未来の夢を語り合ったりしていました。池袋の喫茶店はアトリエ村に住む美術家たち、詩人、新興キネマの俳優などの映画人、そして立教大学の学生たちのたまり場であり、交流の場でもありました。

こうして池袋の西に点在するアトリエ村は池袋モンパルナス(パリ南西部の美術家居住地)とも呼ばれていました。アトリエ村の模型は実物の10分の1の大きさでつくられています。場所は長崎2丁目のさくらが丘パルテノンの一部としていますが、アトリエの内部については千早2丁目3番地にあるつつじが丘アトリエ村の彫刻家の家をモデルにしています。時期はさくらが丘パルテノンが建てられてから2~3年後の4月を想定しています。

更新日:2015年2月25日