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池袋ヤミ市

第2次世界大戦は日本の敗北で終わりました。東京をはじめ日本の主要都市は空襲で焼き払われました。この焼け跡から戦後の国民生活の再建がはじまりました。それは食糧をはじめ生活物資がない苦しい時でしたが、戦時下の重苦しい圧迫感と異なり、自由な解放感があふれていた時代でした。

ヤミ市の様子1

そうしたなかで、戦災都市の焼け跡にバラック建てで長屋式の連鎖商店街や露店がつくられました。その多くは、統制対象の商品をヤミ取引で売っていたため、ヤミ市といわれていました。

ヤミ市はひどい窮乏生活をしいられた戦災都市住民の生活を象徴するものであり、またそれは犯罪と結びつく無法地帯という印象をもたれてきたことは事実です。しかしそれだけではなく、ヤミ市はおおやけの配給だけでは生活を維持できない時代に、当時の人びとに生きていくうえでの必需品を供給し、また人びとに働く活力をあたえる食事やお酒を提供する場でもありました。そこには、みじめな生活をつきやぶり、戦後経済復興をなしとげるたくましい力がみなぎっていました。その意味でヤミ市は戦後都市商業発達の源泉のひとつであると考えることができます。

池袋をはじめ豊島区は1945(昭和20)年4月13日を中心とする大空襲により、大きな被害を受け、豊島区東部から中央部にかけては、ほとんど焼け野原になりました。池袋駅も焼けましたが、ここは山手線が通り、赤羽線・武蔵野鉄道(現西武池袋線)・東武東上線の終点でもあり、交通の要所でした。しかも武蔵野鉄道や東上線の沿線は戦災にあわないところが多く、池袋は大きな購買力をもつ地域を背後にかかえていたことになります。これらの条件があって、池袋は典型的なヤミ市が形成される街となりました。

池袋連鎖商店街の分布図や規模概況表および業種別構成表をみればわかるように、1947年6月の時点で、池袋に13か所の連鎖商店街があり、商店は1200軒以上ありました。これらは星野朗氏の調査によるものです。このなかには必ずしもヤミ市とはいえないものも含まれています。ヤミ市は建物疎開の跡地とか、学校・工場などの焼け跡の空地に建てられました。店の多くは飲み屋を中心とする飲食店でした。それについで食料品を売る店が多く、衣料などの家庭用品をあつかう店もありました。

ヤミ市ではもちろん基準価格ではなく、それの何倍、何十倍ときには百倍をこすヤミ値で売られていました。しかし、それでもよく売れたといいます。それほど求められたのは、配給だけでは食べものすら十分に手に入らなかった当時の生活状況のあらわれであるとともに、配給体制の問題点をも示しているといえるでしょう。

ヤミ市の様子2

ここでは、池袋のヤミ市のうち、池袋駅東口駅前にあったヤミ市の南側部分を20分の1の縮尺の模型で再現しています。時期は1947年の夏を想定しています。この模型化地域は、飲み屋ばかりあるようなところではなく、多様な業種の店がある一角でした。

模型製作にあたっては、前述の星野氏の調査によって店の業種を定めています。そのうえで、当時の関係者から取材し、さらに関係資料を利用して、店の内部や店のまわりのようすを再現しています。しかし、ヤミ市は商売をする人がすぐかわるなど変化が激しく、このヤミ市はすでに60年ほど前に撤去され、まったく残っていないため、十分な調査ができないで、不正確なところも多いと思います。ご覧になりました方がたのご協力で、これからより正確なものに直していきたいと思っておりますので、お気づきの点をお知らせください。

この模型は動きませんが、タイマーによって照明がかわるようになっており、真昼の光景と夕方の光景とがきりかわるようになっています。

池袋駅東口駅前の変化を示す写真が展示してあります。戦争中の1939(昭和14)年4月1日に当時の東京市電が延長され、池袋駅前まで開通しましたが、その直後の写真があり、また戦後のヤミ市を池袋駅の方からみた写真とヤミ市撤去後の写真もあります。これらとほぼ同じところの現在のようすをとった写真も対照してあります。池袋商業の発展の一断面をそこからみてとれることでしょう。

更新日:2015年2月25日