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戦時下の区民生活

  • 展示期間1999年
  • 図録なし

休暇・日曜・休業日は廃止─工場動員の中学生・高女生たち─

アジア太平洋戦争(第2次世界大戦)の間、中学校・高等女学校以上の生徒・学生は、学徒勤労動員によって、学校で勉強するかわりに軍需工場その他の工場・事業所で、働く日々を過ごしました。生徒たちはすでに中国との全面戦争がはじまるなか、農場や公園整備などの「勤労作業」に参加していましたが、1943年以後、本格的な工場動員が始まります。豊島区の各学校も軍造兵厰での兵器製造から、軍需工場、機械・皮革・衣類などの工場、印刷工場での軍票製造、専売局でのタバコ製造、さらには輸送トラックの上乗りなどに従事しました。

動物の皮をあつかう仕事についた、立教中学の生徒は、その重さと異臭とに苦しめられました。麻縄製作工場に行った川村女学院の女生徒のなかには、麻の埃で胸を悪くする人も出ました。トラックの交通事故で亡くなった人もいます。

1944年(昭和19年)年2月25日の閣議決定「決戦非常措置要綱」は、学生生徒の常時動員を行うことにしました。これを受けた、文部省の「決戦非常措置要綱にもとづく中等学校教育内容に関する措置要綱」(3月24日)では、「勤労動員をして教育の一環たらしめ勤労と教育との融合につとめ」とし、教育をないがしろにするものではないとの建前を示しました。

ではどのようにして教育を行うのか。

「休暇・日曜日等の休業は原則として、これを廃し」、「日曜日または作業の休日等を利用し・・・」「現場における余暇を活用して・・・」としています。動員学徒には休みはない、というわけです。「国策を完遂するの気魄と態度とを涵養すること」と精神力を強調していますが、さすがにこれでは現実的ではないと考えたのか「勤労動員と共に学力の充実向上にあたるを建前とするも、生徒心身の休養につき適切なる配慮をなすこと」と休養の必要も述べてはいます。しかし、この「配慮」は現場にまかせられたわけです。

下町の軍需工場は、東京大空襲(1945年3月10日)で被災し、操業不可能となるものも多く出ます。学徒は、次の動員先が決まるまで、学校へ登校することになりました。

(かたりべ55号より)

更新日:2015年2月25日