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テレビがなかったころ落語と映画は娯楽の王様だった

  • 展示期間1994年2月12日から3月27日
  • 図録品切れ

今回の特別展では、区内の寄席と映画館の変遷を通して、豊島区という地域で育まれた「娯楽文化」について考察するとともに、都市における娯楽の変容と都市化の進行との関連について考えていきたいと思います。

I大衆芸能花盛り

このコーナーでは大正の末から昭和の初めにかけて豊島区地域内に建てられ、多くの人々が足を運んだ寄席について、東京全体の状況などとも比較しながら、都市化の進行過程における娯楽施設の展開について展示します。

II活動写真と呼ばれていた頃

豊島区に建てられた最初の映画館は大塚の天祖神社前のオヤマ館で、1916(大正5)年に開館しました。娯楽が少ない当時にあって、映画館はその後も数を増やしていき、太平洋戦争に突入する前年の1940(昭和15)年には15館を数えるようになります。

III受難の次代

1937年(昭和12年)に日中戦争に突入すると、娯楽も次第に国家の統制下に置かれていくようになります。当時、寄席も映画館も娯楽施設というよりも「社会教育機関」という認識から、出し物や上映映画に大きな変化がもたらされました。映画は積極的に国策宣伝のために利用され、映画法が制定されて映画の製作も配給も完全に国家権力の下に置かれました。

また、寄席では、噺家が新体制落語・国粋落語と称する新作落語を演じはじめました。

戦後もGHQによって異なる視点から娯楽に対する統制が実施され、落語・映画とも仇討ちなどの題材が禁じられました。

IV娯楽の復活

戦後いち早く池袋駅東口に開業したのが山手映画劇場です。戦前から営業していた日勝映画やシネマロサ・邦映座なども開業します。1947年(昭和22年)に6館だった映画館も1950年代を迎えると20館と増え、1959年(昭和34年)には38館を数えるまでに増加し、まさに「娯楽の王様」として君臨します。

Vテレビの登場

1953年(昭和28年)にテレビの本放送がはじまりました。当初は受像機が高価であったため、駅頭や商店街などに「街頭テレビ」として登場し、1958年(昭和33年)から急速に一般家庭へと普及していきます。この年を境に映画人口は激減し、1963年(昭和38年)までの5年間で半数に落ち込みます。

VIその滅びざるもの

減少を続けていた映画人口も、1970年代にはいると横這いになります。しかし寄席はもっと深刻で、現在残っているのは東京都内は4軒だけです。そのうちの一つが最近建て替えられた池袋演芸場で、江戸からの文化を伝える数少ない娯楽施設として興行が続けられています。

(展覧会チラシより)

図録表紙

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更新日:2018年3月14日