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へたも絵のうち

  • 展示期間1985年7月2日から1985年8月4日
  • 図録(在庫切れ)

熊谷守一は自然を愛し、俗世間を超越し、自分に対してすなおに生きつづけようとした人でした。生れは岐阜県恵那郡付知村ですが、父が初代岐阜市長をつとめ、市内で製糸工場を経営していた関係で、岐阜市で育ちました。守一は小さい時から絵が好きで、父の反対をおしきって、東京美術学校に入り、そこで洋画を学びました。年をとってから、日本画を描くようになり、また書も頼まれてよくかいていました。それとともに、洋画も見たままを細かく描くことから、平らに塗る絵に変わります。

守一は1997年に97歳でなくなるまでの後半生、45年間を豊島区千早町の家に住みました。庭はそう広くないが、木や草がうっそうと茂り、家も古くなっていましたが、住み馴れて自分の家らしくなったといっていました。画室に置かれた台や棚などはみかん箱を利用して自分で作ったものです。絵の道具も手作りのものや、使いやすいように加工したものや、何回も修理したものを使っていました。

絵を描くとともに、音楽を楽しみ、大工道具などの金物いじりが好きで、時計修理もできました。鉄屑や道端の石なども拾ってきて、大事にとっていました。庭の中に「天狗の腰かけ」と呼んだ休み場所をこしらえて、散歩をしたり、落葉や紙屑を燃したりもしていました。たばこはひっきりなしに吸っていたが、紙の臭いが嫌いで、紙まきではなく、パイプを使っていました。碁は毎日のように夫人と打っていました。

今回展示会では、画家熊谷守一の生活や絵の創作活動のようすを、残された遺品や写真でしのび、そこから人となりを明らかにしようとすることをねらいとしました。遺品や作品は長男の黄さん、次女の榧さんや熊谷守一記念館などが持っていたものです。展示は絵・書・彫刻などの作品が13点、熊谷守一をモデルにした関係者の作品が2点、写真が22点、遺品が90点余り、および年譜などで構成しました。

(かたりべ1号より)

図録表紙

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更新日:2018年3月14日