トキワ荘のあった街 東京都豊島区
更新日 平成21年10月23日
マンガ家たちの魂が今も残るまち
「トキワ荘」は、漫画界の第一人者、手塚治虫氏、藤子不二雄(A)氏、藤子・F・不二雄氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏らの漫画家が、青春時代・下積み時代を過ごしたところ。椎名町(しいなまち。現・南長崎)にありましたが、現存しません。
その「記憶」を地域文化として後世に繋げるため、記念碑が設置されました。
注釈)漢字表記について
正しくは手塚治虫氏の「塚」は旧字体で表記します。また、藤子不二雄(A)氏のAは丸囲みで表記します。
1986年の特別展「トキワ荘のヒーローたち」開催時に展示室内に再現した4畳半部屋の写真(郷土資料館所蔵)
豊島区郷土資料館「かたりべ」7号より(1986年11月15日発行) <敬称略>
戦後漫画をリードしたのが手塚治虫であることは言うまでもありませんが、トキワ荘グループはその影響を強く受けた、主に『漫画少年』などの月刊誌を舞台に活躍した戦後第一次新人漫画家集団でした。
彼等は新漫画党を結成し、党首の寺田ヒロオの他、藤子不二雄・石ノ森章太郎・赤塚不二夫・つのだじろう・鈴木伸一などがいました。そのほとんどが地方から上京してきた若者で、新人のアパート暮らしは楽ではありませんでした。安いキャベツばかり食べたり、風呂もろくに入れない生活でした。だが文化活動は旺盛で、活発、奇抜なものでした。
映画鑑賞が最大の娯楽でしたが、彼等は単なる娯楽とせず、勉強の場として仕事に生かしていました。安孫子素雄は支出の一割が映画代でした。漫画という静止した二次元の世界にたずさわる彼等にとり、動く写真は魅力だったに違いありません。彼等は八ミリで劇映画を作りました。安孫子・石ノ森はテレビを買い、石ノ森はステレオも持っていました。SFや文学を読みました。この文化・電気器具の早い購入は一見贅沢なようですが、決してそうではなく、創作活動の一環そのものだったのです。
遊びも茶目気のある凝ったもので、八ミリ映画や野球にも賞状を用意しました。新漫画党の会合は腹のよじれるほど愉快なもので様々なエピソードを生みます。そのような楽しい共同生活があったからこそ、今でも彼等の友情は続き、再会すれば青春が蘇るのでしょう。
トキワ荘のあった街 (「トキワ荘のあった街」パンフレットより)
「トキワ荘」と「商店街」みんなが共同体だったあの頃を思い出す
昭和28年初め頃、トキワ荘の完成とほぼ同時に手塚治虫氏が入居しました。それは、マンガ雑誌「漫画少年」の編集長が、同じアパートに部屋を借り、超売れっ子の手塚氏を監視するためでもあったそうです。そして、その「漫画少年」への投稿仲間であった若い漫画家たちが、日本全国から次々とトキワ荘へやってきました。
寺田ヒロオ氏、藤子不二雄氏、鈴木伸一氏、森安なおや氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏、水野英子氏、よこたとくお氏、などなど。地方出身の住人組と、つのだじろう氏、永田竹丸氏、長谷邦夫氏、横山孝雄氏、高井研一郎氏、園山俊二氏、つげ義春氏、ちばてつや氏、松本零士氏、滝田ゆう氏、棚下照生氏などなど、いわゆる通勤組の、有名・無名も数え上げたらきりがない新人やマンガ家志望者が、毎日のように出入りしていました。
トキワ荘への憧れからか、近くのアパートに住んだマンガ家(ジョージ秋山氏ら)も多く、「石を投げればマンガ家に当たる」と言われたのも、決して誇張ではなかったのです。
まだ家賃が3,000円だった時代。20歳そこそこで、駆け出しの彼らの空腹を紛らしたのは、10円で買えたコッペパンや、1杯40円のラーメン、キャベツの塩炒め、などでした。
また、赤塚氏と藤子(A)氏、藤子F氏は母親が、石ノ森氏は姉が同居して、本人だけでなくグループ全員の食事の世話もしていました。買い物カゴを提げて商店街で井戸端会議、なんていう光景もあったのでしょう。
その頃の商店街は落合からの客も多く、かなり賑わっていました。同業の店も何件もあり、威勢のいい商人の声が飛び交っていました。八百屋のおばちゃんの「お兄さんキャベツあるよ!」の大声が、今にも聞こえてきそうです。また、タオルのねじりにステテコの店主が当たり前でした。きっとこれらの商店街の名物の人たちが、彼らの漫画にインスピレーションを与えたことも多くあったことでしょう。
マップでめぐる「トキワ荘」

昔、豊島区椎名町(現:南長崎)にあった「トキワ荘」。マンガの神様たちが青春時代を過ごした「奇跡のアパート」。街の名も変わり、「トキワ荘」もなくなってしまいましたが、ここから新たに、マンガの聖地としての伝説が生まれます。
■ご注意:パンフレットの在庫はなくなりました。あらかじめご了承ください。内容についてご覧になりたいかたは、本ページ下部のPDFファイル「トキワ荘のあった商店街マップ」をご覧ください。
トキワ荘のあった商店街マップ

「トキワ荘」と「商店街」。昭和風情あふれる商店街で、トキワ荘の思い出巡りをしてみませんか?
注釈)下記A~Jのスポットの紹介は、マップ上のA~Jと呼応します。
A. トキワ荘跡地
現在、日本を代表するマンガ家たちが、数多くの出世作を生み出した場所。まさに「マンガの聖地」です!
最初にトキワ荘に住んだマンガ家は、昭和28年初めに入居した手塚治虫氏でした。その後も新人マンガ家たちが全国から集まり、寝食を共にした場所です。現在は「日本加除出版株式会社」の第2社屋が建っており、トキワ荘の跡地らしきものは残されていませんが、日本加除出版の門柱はトキワ荘建造前からあったので、トキワ荘の位置関係を知る上で格好のランドマークといえます。
B. 記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
マンガ家10人の似顔絵(自筆)とサイン。上部にトキワ荘のブロンズ模型の乗った記念碑です!
トキワ荘記念碑の建設地である「南長崎花咲公園」は、当時都営バスの社宅で「大和寮」と呼ばれていました。社宅が解体されたあと、児童公園になり、2回にわたる整備・拡張で現在の公園の姿になりました。
C. 中華料理店「松葉」(まつば)
現在も残る、トキワ荘のマンガ家に愛された中華料理店。店内には、数多くのマンガ家のサインが飾られている。
トキワ荘とゆかりの深い店で、唯一現存するのがこの中華料理店「松葉」。藤子(A)の「まんが道」や映画にも登場し、実名での登場回数はナンバーワン!当時からの伝統の味を、今でも守り続けています。ぜひ一度ご賞味あれ。店内は、マンガ家直筆の色紙がたくさんあり、さながらミニ博物館のようです。
D. EDEN(エデン)
トキワ荘から歩いて5、6分。マンガ家たちの憩いの場。
昭和24年から営業している音楽喫茶店。マスター自慢のジュークボックスと、当時では珍しく冷房設備があったため、夏の猛暑にはここでマンガを書いたマンガ家が多くいたそうです。でも本当はかわいいウエイトレスにひかれていたからとも・・・。文字通り「エデン(楽園)」でした。マンガ家以外にも文化人の常連も多かったのですが、山手通の拡幅により残念ながら2002年に閉店してしまいました。
E. 「菊香堂」と「鈴木園」のアパート
マンガ家たちのおなかを満たした、安くておいしいパン屋さん。赤塚不二夫氏やよこたとくお氏が住んでいた鈴木園のすぐ隣です。
自家製のパン・ケーキ菓子店で2009年現在は「デイリーヤマザキ」。マンガ家たちは、ここのコッペパンとフランスパンを毎日のように食べていました。菊香堂のとなりの鈴木園アパートには、新婚の赤塚氏やよこた夫妻がトキワ荘から移り住みました。金欠のため、1個のコッペパンを、赤塚氏と石ノ森氏が分け合って食べたというエピソードもあります。
F. 鶴の湯
マンガのアイデアにつまると、よく一番湯に来ていた、とか。
木造アパートと銭湯の密集地としては都内でも有数であった椎名町。なかでも、トキワ荘のグループが下駄を鳴らして通ったのが「鶴の湯」でした。当時、湯銭が15円。NHKドラマ「まんが道」では、鶴の湯の路地がロケ現場にもなりました。平成3年(1991年)頃に惜しまれつつ廃業しました。
G. 目白映画
マンガ家たちが通った今はなき映画館。テレビが普及する以前は、映画は娯楽の王様でした。
ゴジラなどで有名な東宝系の映画館。池袋の人世座や文芸座にも出かけていたそうですが、一番近い映画館なので、マンガ家たちも見ていたことでしょう。昭和45年ごろまで営業していました。現ジーンズメイト(衣料店)
H. 子育て地蔵尊(こそだてじぞうそん)
今も昔も地域の人々を見守るお地蔵様。時代は移り変わっても変わることのない、大切な町のシンボルです。
トキワ荘の目の前にあった「第一マーケット」横の路地のお地蔵さん。永い間地域を見守り続け、2010年には300周年を迎えます。戦前は「地蔵さん縁日」もあり、トキワ荘の新漫画党メンバーであった永田竹丸氏は、住まいが下落合だったこともありよく出かけていたそうです。商店会では、昭和52年(1977年)より、毎年8月に「子育て地蔵まつり」行なっています。
I. 田中正雄の仕事場跡
トキワ荘ができる以前から、人気マンガ家が多く住んでいる椎名町は、マンガ家憧れの地でした。
トキワ荘記念碑が建設される同じ番地内に、昭和28年ごろよりマンガ家田中正雄氏が「大野屋」という旅館の2階の二間を借り切って母親と一緒に住んでいました。大阪にいた頃から手塚氏と親交があり、当時の人気を二分していたといわれています。田中氏の代表作は「ダルマくん」。
J. 「紫雲荘」と「落合電話局」
10円玉を握りしめ、公衆電話でやり取りしていた日々。
週刊誌の仕事が忙しくなった赤塚氏が借りたアパートが、現存する「紫雲荘」です。トキワ荘の赤塚氏の部屋と窓越しに会話のできる位置関係でした。そこのアシスタント1号の女性が、その後の赤塚氏の奥様となるのです。また、トキワ荘の正面入り口の真向いにあった落合電話局の電話ボックスは、彼らにとってはなくてはならないものでした。携帯電話どころか自分の部屋に電話も持てない時代に、電報と並んでトキワ荘の重要な通信手段でした。出版社とのやり取りや、うれしいこと、つらいことなど、様々な思い出が詰まったスポットなのです。
詳しくは、「トキワ荘のあった商店街マップ」をご覧ください。
記念碑「トキワ荘のヒーローたち」除幕式(平成21年4月4日)
地域の願いが記念碑設立につながった!トキワ荘の文化を全国へ発信

「トキワ荘」は、漫画界の第一人者、手塚治虫氏、藤子不二雄(A)氏、藤子・F・不二雄氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏らの漫画家が、青春時代・下積み時代を過ごしたところ。椎名町(現・南長崎)にありましたが、現存しません。
その「記憶」を地域文化として後世に繋げるため、地域が主体となり、実行委員会を結成。記念碑の設置に向け、平成20 年5 月から区と協議を行い、平成21年4 月4 日 土曜日、区立南長崎花咲公園(南長崎3-9)で、記念碑の除幕式が行われました。

記念碑は御影石製で、高さ約170センチメートル、幅約160センチメートル、奥行約160センチメートル。デザインは、トキワ荘アパートをモチーフにし、漫画家本人の自筆の似顔絵とサインを盛り込んでいます。
除幕式当日、会場では、地元小学生による「マンガ絵」も展示されたほか、模擬店では、若き漫画家たちが貧しい生活の中で生み出した「チューダー(焼酎のサイダー割)」などが出されました。
その他にも、商店街が作成した「トキワ荘のあった商店街マップ」の配布などが行なわれました。
式典出席者の声(豊島区報道発表資料より)

トキワ荘記念碑設置実行委員会委員長岩井昌治氏は、「トキワ荘自体は、無くなってしまったが、この記念碑から地域文化を全国に発信していきたい」と語った。また、トキワ荘に住み、記念碑を監修した3人の漫画家が設置の喜びを語った。鈴木伸一氏は、「漫画家が作り上げた実績の上にたつトキワ荘記念碑です。本当に喜ばしいこと」と話した。水野英子氏は、「当時手塚先生がトキワ荘の碑が立つといいねと語っていた。当時では、漫画の碑が立つなんてことはとうてい考えられないことだった。大変感謝しています」と話した。よこたとくお氏は、「みなさんに深く感謝しています」と話した。高野之夫区長は、「今後トキワ荘の企画展や、並木ハウスを活用した雑司が谷の文化発信などを予定している。今後も漫画文化のまちづくりを、地域のみなさんと共に進めていきたい」と語った。
過去のトキワ荘関連イベント(報道発表資料)
- 帰ってきた「トキワ荘のヒーローたち」(平成21年10月19日)
- 記念碑「トキワ荘のヒーローたち」除幕式(平成21年4月4日)
- トキワ荘跡記念碑建立記念「虫プロOBたちによる感謝展」開催中(平成21年2月25日)
- きんぷく&フォーフェスタ2009開催!(平成21年2月14日)
- (予告)特別記念公演「父は天才、手塚治虫」(平成21年1月27日)
- 『手塚 治虫 セル画展』開催(平成20年2月12日)
- 『第2回区民ひろば富士見台 「祭典」』開催(平成20年2月2日)
関連情報
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