区指定文化財の紹介
更新日 平成21年3月17日
長崎獅子舞・用具一式
長崎獅子舞は、五穀豊穣と悪病退散を願って、江戸末期から旧長崎村の人々によって伝承されてきた民俗芸能です。毎年5月の第2日曜日に行われる長崎神社の祭礼では獅子舞が演じられ多くの見学者でにぎわいます。
獅子頭をかぶり、腹に太鼓をつけた三匹の獅子が、ササラをもつ四人の花笠と共に舞う形は、関東地方によく見られますが、演目の組みかたにその特徴があります。なお、昭和初期からは四匹の獅子が演じるようになっています。
また、明治~昭和時代の銘がある道具と衣装は保存状態が良く、一括で保存されている点で貴重です。

冨士元囃子(ふじもとばやし)・用具一式
冨士元囃子は、明治40年頃に長崎村の本橋重太郎が習い覚え、地元の浅間神社および長崎神社の祭礼時に奉納したことに始まります。本橋家が、浅間神社境内にある「豊島長崎の富士塚」の富士講の先達を長年務め、毎年8月の祭礼時に囃子が奉納されていたことから、冨士元囃子と名づけられたといわれています。
東京の祭囃子の特徴である五人囃子の形態をとり、神田流大間囃子に属します。演目は屋台・昇殿 ・鎌倉 ・四丁目 ・屋台で構成され、かつて長崎地域が農村であった頃の、のどかな笛の音を聞かせる曲調です。また芸(色物)として正月などには寿獅子・大黒舞が上演されます。
約100年の歴史をもつ冨士元囃子は、長崎獅子舞とともに長崎地域の特色を示す貴重な民俗文化財といえます。

木造釈迦如来坐像
勝林寺は、元和2年(1616年)に徳川幕府の御殿医中川元享が湯島に創建し、田沼意次老中が中興再建した臨済宗の寺院です。
本像は高さ50.5センチメートルの一木造りで、眼は彫眼、肉身は漆箔、着衣は漆塗りです。小像ですが、面、胸、両脚などのボリューム感が豊かで、堂々とした大きさを感じさせます。また面相には威厳をそなえ、衣は彫りが深く、かなり装飾的であることから、本像の制作年代は9世紀末と推定されます。
東京都における木像としては最も古く、また関東でも数少ない古像であり、平安時代初期の彫刻仏像として貴重な文化財といえます。(非公開)

木造聖観音立像

本像は、明治43年に第15代住職真誠が、勢至菩薩立像とともに、群馬県佐波郡境町周辺の寺より購入したものといわれ、現在観音堂内に安置されています(非公開)。
本像は、区内仏像調査により平成8年に区登録文化財となっていましたが、平成15年に行った解体修復の結果、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作であることが判明しました。仏像彫刻としては、木造釈迦如来坐像〔平安時代初期(9世紀末)、勝林寺所蔵〕に続く2番目の区指定となります。
本像の特徴としては、カヤの材を用いた一木割剥ぎ造り(高さ126.5センチメートル)で、裳の形が膝下でくびれている点が挙げられます。ほかに例を見ない非常に珍しい形姿の仏像といえます。
蓮華寺金剛院仏性寺山門
金剛院は、大永2年(1522年)に聖弁和尚によって開創された真言宗豊山派の寺院です。
安永9年(1780年)に建立された薬医門様式の山門は、天明年間(1781~89年)の大火の際に、江戸市中の罹災者を多く助けた功績で、10代将軍徳川家治から朱塗の山門(赤門)を許されたといわれています。
その装飾は彫りが深く、意匠的・技術的に優れており、区内にある根生院や重林寺の薬医門よりも古いと考えられます。しかし山門の傷みが見られたため、平成8年にその保存修復および左右両袖塀の復元工事が実施され、往時の美しい姿によみがえりました。

旧江戸川乱歩邸土蔵
日本探偵小説の草分けである江戸川乱歩(1894~1965年)が、46回目の引越しで池袋3丁目(現西池袋5-15、立教大学に隣接)に移り住んだのは昭和9年のことです。敷地内には大正10年築の主屋と大正13年築の土蔵があり、乱歩はこの土蔵が気に入って、昭和40年71歳で死去するまでの31年間、土蔵を書斎兼書庫として愛用し、ここから『怪人二十面相』・『少年探偵団』シリーズなど数多くの名作が生まれました。
土蔵は桁行3間(5.4メートル)、梁行2.5間(4.5メートル)の木造土蔵造り2階建てで、延床面積は15坪(約50平方メートル)です。建築上の特徴としては、関東大震災の翌年に建てられたため、壁下地に金網を用い、洋小屋を採りいれるなど、耐震対策を意識した新工法を採用しています。外壁は鼠漆喰仕上げで、壁色が鼠色の土蔵は少なく貴重です。また土蔵の中には、乱歩の創作活動の源となった近世文学から海外ミステリーまで数万冊の蔵書がほぼ当時の状態で保存され、文化史的価値があります。
第二次世界大戦下の空襲により焼け野原となった池袋地区において、大正期の土蔵が当時の姿で残っている例はほかになく、豊島区における貴重な文化遺産であるといえます。
区文化財の指定を受けて、所有者の立教学院では、一般公開にむけて乱歩の蔵書整理を進めるとともに、平成15年8月から翌年3月まで土蔵の保存修復工事を行い、建築当時の姿に復原しました。


旧丹羽家腕木門
豊島区駒込(染井)は、江戸時代から植木の一大生産地として知られ、植木職人が多く集住した地域です。丹羽家は天明年間(1780年代)から明治末期まで染井を代表する植木屋として活躍した、当地域の地主としても知られている旧家です。
丹羽家の旧屋敷地は、JR駒込駅から約400メートル北西の染井通りのほぼ中央に位置し、平成18(2006)年から豊島区の広場として整備が進められ、北角の蔵と西隅の門が区の所有となって現地保存することになりました。
旧丹羽家の門は腕木門という形式で、簡素な構造でありますが、格式のある門です。建築年代は不明ですが、当初材である親柱には和釘が使用されていることや、親柱、冠木、扉などの風蝕の様子、また、都内の類例との比較などから、江戸時代末期の建築と推定されます。言い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したともいわれます。
屋根や部材には、かなり傷んでいる部分があるため、豊島区の指定文化財になったことに伴って、平成19年10月より保存修復工事が行なわれ、平成20年3月に竣工しました。

写真撮影 福田悟
池袋富士塚
富士塚は、富士山を信仰・参拝する富士講組織を単位として築造された山で、区内には池袋のほかに長崎富士塚(高松2丁目、国指定重要有形民俗文化財)があります。
池袋富士塚は、明治45(1912)年6月に池袋月三十七夜講によって築かれました(高さ5メートル、幅13~18メートル)。塚には、頂上に奥宮、中腹右側に小御嶽社、左側に烏帽子岩を配し、題目碑・合目石・講碑・天狗像・猿像など計52基の豊富な石造物があります。これらの碑文からは、往時の講活動や他講との交流など区内の民間信仰のあり方を垣間見ることができます。
なお、平成10年には約半世紀ぶりに山開きが復活し、以降毎年7月1日に行われています。(外観のみ見学可)

鹿碑(寛政七在銘)・えい賜猪碑(嘉永二年在銘)
鹿碑は、寛政7年(1795年)3月5日、11代将軍徳川家斉が下総国小金原で鹿狩を行なった際、同行した旗本本郷泰行が当日の様子を後世に伝えるために造立した石碑です。
えい賜猪碑は、嘉永2年(1849年)3月18日、12代将軍家慶が同じく小金原で鹿狩を行なった際、同行した本郷泰行の孫・泰固が、将軍から猪・兎を下賜された出来事を後世に伝えていくために造立した石碑です。
大名 ・旗本が自らの事跡を書き残した石碑は数が少なく、区内に居住した武家の足跡や地域の歴史を知るうえで貴重な歴史資料といえます。(写真右側が鹿碑)

染井遺跡(三菱重工業染井アパート地区)出土化粧道具他一括
この地(駒込5-3)は江戸時代、津藩藤堂家下屋敷・抱屋敷があった場所で、平成7年の発掘調査により、18世紀後半の紅化粧・白化粧・お歯黒化粧・眉化粧・髪化粧に関係する道具一式(陶磁器36点・金属製品146点)が良好な状態で出土しました。
これらの一括資料は、当時の一般的な化粧道具に比べ、紅皿など肥前産の上質な陶磁器類が含まれていること、お歯黒液を入れる金属容器(潼子)の文様に藤堂家の家紋である「藤堂蔦」が刻まれていることなどから、藤堂家または有力家臣の家族が使用していたものと考えられます。その他に筆立てやキセルなども一緒に出土しており、これらは、上級武士階級の女性の日常生活を考える上で、貴重な考古資料といえます。


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