広報としま[号外] 令和6年8月15日 発行:豊島区 編集:子ども若者課地域支援グループ 〒171‐8422 豊島区南池袋2‐45‐1 電話 03‐3981‐2187(直通) FAX 03‐3980‐5042 令和6年7月14日(日曜日) 中央大会「区民のつどい」で作文コンテストの表彰式を行いました! 第74回“社会を明るくする運動” 〜犯罪や非行を防止し、立ち直りを支える地域のチカラ〜 作文コンテスト表彰式(小学生の部) 作文コンテスト表彰式(中学生の部) 推進委員長賞 「心のバリアフリー」 仰高小学校 6年生  田中 佑奈さん  私は、よく電車に乗る。特に電車が好きだとか、そのような理由は特にない。ただ単に用事があるだけ。  ある日、私はいつもどおりの電車に乗った。電車にはもう慣れたので、ひとりで乗っている。あ、電車が来た。6両編成だ。すると私の後ろに並んでいた明らかに年下の男の子が前に出てきて近くのおばあさんに話しかけた。  「すみません、この電車にのりますか。」  「あ、そうです。」  「それなら電車は6両編成だから、そこには止まらないので、こちらのほうがいいと思います!」  「あら、ホントだ、どうもありがとう!」  そう、おばあさんが乗る場所を間違えて電車を待っていたのだ。6両編成なのに、7両目のホームドアの前にいた。そして、その後おばあさんもその男の子も笑いながら電車に乗っていたようにみえた。私は、この男の子のように見知らぬ人にとっさに何かを言うことはできないし、そもそもそんな人がいることに気づかないかもしれない。  その約1週間後、私は再び6両編成の電車を待っていた。そうすると、今度はお兄さんが7両目のドアの前にいた。今度は私が話しかけよう!という気持ちはあったが、もし話しかけることで迷惑をかけてしまったらどうしようと不安になり、話しかけることができなかった。  家に帰ってから母にそのことを話すと、  「その気持ち、よくわかる。私も例えば、目の見えない人が杖を持って歩いている時に、杖の邪魔にならないように歩くことはできるけれど、もしその人が何か困っていそうな時に、大丈夫ですか?と話しかける勇気はなかなか出ない。話しかけるって難しいよね。」  確かに、道をあけたり、電車で席を譲ったりするような、相手が何に困っているか分かりやすい時は、私も迷わずに助けられる。そうではないときに話しかけることがうまくできないのだ。  私は、おばあさんを助けた年下の男の子の行動をみて、積極的に声を掛け合うことで今よりも明るい社会になるのではないかと思った。あの男の子のように迷わず声をかけること、また、何か困ったことがありそうな人に積極的に話しかけること。そのためには、どうしたらよいのだろうか。街の中の不便を感じやすい場所、例えば狭い道路や急勾配の坂、信号がすぐに変わる横断歩道などでは、困っている人がいるかもしれない。だから私は、日頃からどういうところが不便なのかを知り、意識するようにしたら良いのではないかと考えた。そういえば4年生の時に、総合の学習で、地域のバリアフリーの場所についてくわしく調べて発表したことを思い出した。私の住んでいる巣鴨駅の周りにも不便を感じる所とバリアフリーになっている所がいくつもあった。その時調べたこともとても役立つと思う。不便なところだけではなく、バリアフリーの場所も知っておいたほうが助けやすいこともあるのではないか。  様々な心身の特性や考え方を持つすべての人々が、相互に理解を深めようとコミュニケーションをとりあい、支え合うことを「心のバリアフリー」と言うそうだ。私が思った、積極的に声を掛け合うということは、この「心のバリアフリー」の、相互に理解を深めようとコミュニケーションをとり、支え合うことに通じるのではないだろうか。また、「心のバリアフリー」には、様々な心身の特性や考え方を持つ人々を理解するということも含まれているので、ただ何かに困っている人に声を掛けるだけではなく、色々な考え方についても知って理解し、コミュニケーションを取るようにしたいと思う。  心のバリアフリーを大切に、勇気を持って声を掛けること。そしてみんなで、少しずつでも助け合いを行えば社会が変わると思う。また、私達から実行していけばそれがだんだんと広がって行くのではないか。そして日本中が笑顔あふれる社会になればいいと思う。  だから私は、勇気を持って積極的に声をかけていきたい。 身近な人に声を掛けること 推進委員長賞 貞静学園中学校 3年生 長ア 大嘉さん  昨年11月19日、ぼくの祖父は病気で亡くなりました。近所付き合いを大事にしていた祖父の通夜には、顔なじみの方がたくさん参列してくださいました。その中には、小学1年生くらいの小さな子の姿もありました。その子は祖父の棺に近寄っていき、1枚の紙をそっと入れていきました。それはひらがなでていねいに書かれたお手紙で、「おじちゃん、いつもみまもってくれてありがとう」と書いてありました。  祖父は、小学生の登校を見守るボランティアをしており、毎朝「おはよう」「いってらっしゃい」と声を掛けていました。そのため、最後のお礼を伝えようと、お母さんといっしょにわざわざ駆けつけてくれたのです。  自分を見守ってくれる人がいる。自分に声を掛けてくれる人がいる。何かあったときに話を聞いてくれる人がいる。ぼくは祖父を通して、大切なことに改めて気が付いたのです。  祖父が見守りボランティアを始めたきっかけは、地域の安全安心のためだったのはもちろんですが、それ以上に「恩返し」の気持ちが強かったからでした。  祖父が小学校に入学するときのことです。家が貧しく、その日食べる物があるのか分からない生活をしていました。そんな中、親がランドセルを用意してくれました。しかし、いざ登校してみると、自分のランドセルは他の子よりも見た目が悪く、明らかに粗悪なものだったのです。恥ずかしくて、帰りは隠すようにして持って帰りました。自分の親を、自分の生まれた環境を憎んだ最初の日が、この入学式だったそうです。  その後も、グローブが買えないから「部活には入らん」と強がる。弁当を作ってもらえないから「お腹は空いとらん」とごまかす。一事が万事、貧しさゆえにみじめな思いを味わいました。  そのような生活が続き、卑屈な思いに押しつぶされて自暴自棄になりそうな自分を、ギリギリのところで止めてくれたのが、近所の人からの声掛けだったそうです。  「元気にやっとるか」「ちゃんと食べとるか」「がんばっとるじゃないか」  この地域に住んでいて嫌な思いもたくさんした。だけど、助けてもらうこともあった。だから、今までもらった恩を返していきたい。自分を蔑む人がたくさんいる中で、足を踏み外さないで踏ん張れたのは、近所の人たちのあたたかい目と手と声だったのです。  祖父のように、つらいときや困ったときに声を掛けてもらったことで頑張れたという人はたくさんいると思います。ぼく自身も、周りの人たちに支えられて今まで頑張ってくることができました。  ぼくが小学1年生のときは、「ぼくなんていなくなってしまえばいいんだ!」と泣いて、母を困らせていた時期でした。  ぼくは、会話のキャッチボールがうまくできず、人とのコミュニケーションがとりづらい状態でした。発音もできるし意味も分かるのに、他人との会話のやりとりができない。うまくできないのが分かっているから、人と話したくもない。今思い返してみても、本当に苦しい、もどかしい、どうしたらいいか分からないという思いでいっぱいでした。そして、自分を自分で否定してしまったのです。  ぼくはその後、「ことばときこえの教室」に2年間通いました。2年という時間をかけて自分の居場所を見つけ、自分の得意なことと苦手なことを知り、自分の言葉が伝わるうれしさを感じられるようになりました。  通級では、先生方が本当に親切に指導してくださいました。ぼくが話し出すのをゆっくり待ち、たどたどしい話をじっくり聞いてくれました。さらに、自分の思いを表現する方法として日記を勧めてくれました。水族館でペンギンを見たことや大好きなヒーローの映画を観たことなど、自分がしたことや思ったことを自由に書きました。ぼくが書いた文の横にびっしりと引かれた赤い波線と大きな花丸は、今もぼくが頑張る原点になっています。  家族もぼくのことを一番近くで見守ってくれました。そのおかげで、安心感が生まれ、自分を認められるようになりました。  あれから6年経ち、現在ぼくは中学3年生となりました。中学校の最高学年として、後輩たちをまとめていくリーダーシップが求められています。しかし、ぼくは人前に立つのが苦手です。緊張もするし、うまくやれる自信もありません。だからぼくは、後輩たちが困っていないか、一人になっていないかをよく見て、こまめに声を掛ける先輩になりたいと思っています。  社会を明るくするために必要なのは、人と人とのつながりです。祖父のように、まず、身近な人に声を掛けること。この作文は、ぼくの決意表明です。