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としまの文化資源

長崎アトリエ村

1930年代、豊島区の西部にあたる旧長崎町を中心として、美術家向けの借家群であるアトリエ村がうまれました。このアトリエ住宅は、赤いセメント瓦に木壁で、北側が15畳ぐらいのアトリエになっており、大きな窓と天窓があり、とてもモダンな家でした。しかし居室部分は狭く、1~6畳ぐらいで、多くは3畳から4畳半の間でした。それに便所と台所を兼ねた入口が付いているだけでした。これらは、絵や彫刻を勉強する独身の学生向きに建てられたのです。

最初にアトリエ村がつくられたのは、要町(当時は長崎町字北荒井)で、1931(昭和6)年のことです。奈良次雄の祖母が、孫と同じように美術家をめざす人たちのために建てたものです。その後、他の人がその周辺に建てたアトリエ住宅もふくめて、このあたりは竹やぶが多く、すずめがよく飛んでくるため、「すずめが丘アトリエ村」と呼ばれました。

これにならって長崎の各所に次々とアトリエ村がつくられました。その中で最も大規模なものは、長崎2丁目にある「さくらが丘パルテノン」です。このアトリエ村は、アメリカ帰りの資産家であった初見六蔵によって1936年頃から建てはじめられ、1939、40年頃にほぼ完成しました。

長崎アトリエ村は、「さくらが丘」「つつじが丘」「光が丘」「緑が丘」などという名前がついていますが、「すずめが丘」を除き、すべて谷端川ぞいの低湿地にあります。アトリエ村のほとんどは1930年代に建てられましたが、そのうち池袋に近いものの大部分は戦災で焼失しています。

池袋モンパルナス

はじめアトリエ村には絵や彫刻を学ぶ学生が集団で住んでいました。彼らはモデルを共同で頼み、時には朝食や夕食を共同自炊するなど、寝食をともにし、切磋琢磨しながら貧しさの中で創作に打ち込みました。また、夜になれば立教大学の前を通って、恋や音楽、映画、演劇、文学そして酒の昂揚に彩られた池袋の街に出、自由でモダニズムに溢れた雰囲気のもと、芸術論をたたかわせたり、未来の夢を語り合うなど、様々な交流を繰り広げました。

池袋の街は、アトリエ村に住む美術家たち、詩人、新興キネマの俳優などの映画人、そして立教大学の学生たちのたまり場であり、創造への意欲をはぐくむ土壌だったのです。

そうした光景を、詩人の小熊秀雄は、1938年7月のサンデー毎日に掲載されたエッセーの中で「池袋モンパルナス」と呼んだのでした。

江戸川乱歩

日本探偵小説の黎明期に大きな足跡を残した、江戸川乱歩(本名:平井太郎1894―1965)は、日本推理作家協会の設立に尽力し、初代の理事長も務めました。昭和9年、現在の池袋3丁目に居を構え、昭和40年に亡くなるまで、この地で数々の傑作を生み出しました。

中でも昭和11年に連載の始まった「怪人二十面相」を代表とする、名探偵明智小五郎と少年探偵団のシリーズは、現在でも舞台化、テレビドラマ化され、根強い人気を誇っています。

旧江戸川乱歩邸と、2万冊にも及ぶ蔵書を収めた、乱歩邸の倉(乱歩は「幻影城」と呼んでいた)は立教大学により、研究資料として保存され一般公開も行なっています。

西池袋3-34-1

電話番号:03-3985-4641

旧江戸川乱歩邸(新しいウィンドウで開きます)

トキワ荘

日本のマンガ史の金字塔、手塚治虫、石ノ森章太郎を代表に、多くのマンガ家を輩出したトキワ荘は、現在の南長崎3丁目(当時は椎名町)にありました。

1952年に作られたこのアパートに、当時の雑誌社「学童社」が、自社の雑誌で連載を持つマンガ家を多くこのアパートに入居させました。その中で多くのマンガ家が名をなし、マンガファンにとって聖地のような扱いをされていました。

1981年に老朽化のため解体が決定。手塚治虫を中心としたかつての居住者たちが集結して同窓会を開き、その時の模様がテレビで放送されるなど、マンガ家とファンの双方に重要な場所であることを改めてアピールしました。

1982年に解体された後、別の建物が立ち、現在では会社の社屋に使われています。

※手塚治虫氏の「塚」は、正しくは旧字体で表記します。

マンガの豊島区トキワ荘のあった街

更新日:2015年2月25日