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駒込・巣鴨の園芸

駒込・巣鴨の園芸 園芸の里

近郊農村としての駒込・巣鴨は、江戸中期から明治期にかけて、花卉(かき)と植木の最大の生産地でした。近代の急速な都市化の中で園芸の里は消滅しましたが、かつての駒込・巣鴨の植木屋の活躍は残り少ない遺物や、当時の地図・絵図などから知ることができます。

巣鴨染井王子辺図

巣鴨染井王子辺図 近吾堂版 1852年 館蔵

  • 近吾堂版 1852年 館蔵
  • 藤堂和泉守下屋敷、西福寺、染井稲荷などが記され、染井村のところに「植木屋多シ」とみえます。

駒込・巣鴨の植木屋

駒込・巣鴨地域は江戸の西北郊に位置し、日光御成街道・中山道の主要街道に沿って町並が伸び、藤堂家下屋敷や六義園などの大名屋敷がありました。幕末の切絵図に「此辺染井村植木屋多シ」とみえたり、1886(明治19)年の東京の植木屋分布図が示すように、この地は地続きの文京区の本駒込・千石地域を含めて、一大園芸地帯を形成していました。当時の面影を残すものに、西福寺の植木屋ゆかりの石仏や、駒込駅の開駅を記念して近くの植木屋が植えたつつじなどがあげられます。

大名屋敷

駒込・巣鴨のように江戸近郊に植木業が成り立ってくる要因のひとつに、三百諸侯といわれる大名がその拝領屋敷内にきそって庭園を造営したことがあげられます。この大名庭園の手入れに付近の農民が従事するうちに、次第に植木屋化していったものと考えられます。駒込・巣鴨辺にも数多くの武家屋敷があり、なかでも染井の藤堂家下屋敷、駒込の柳沢家下屋敷などは広大な庭園をかまえていました。

駒込・巣鴨の園芸 植木屋の活躍

「地錦抄」ものを著した伊藤伊兵衛をはじめ、駒込・巣鴨の植木屋は園芸の技術者であるとともに、研究家でもあり、品種の開発や継承に大きな役割を果してきました。また近代に入ると、外国貿易への進出や、盆栽熱の高まりなど園芸の新たな展開がみられました。

染井の植木屋

『絵本江戸土産』館蔵

これらの浮世絵には染井の植木屋が描写されています。江戸名所のひとつに染井の植木屋がとりあげられているのは、植木屋が園芸植物の栽培のために庭園をつくり、花ざかりの季節には江戸市民の花見・遊覧の場となったからです。植木屋にはそれぞれ得意とする花の種類があり、手入れの行届いた花園を公開して見物させることによって、市民の注目を得ようとしたのです。

ソメイヨシノ

日本の桜といえば、今日ではソメイヨシノがその代表種ですが、ソメイを冠称するように染井の植木屋から全国にひろまりました。幕末あるいは明治初めごろから染井の植木屋は売り出し、当初、単に「吉野」と呼ばれていましたが、吉野山の山桜と区別するためにソメイヨシノの呼称が生まれました。ソメイヨシノは遺伝学的にはオオシマザクラとエドヒガンの雑種といわれています。

伊藤伊兵衛の庭(伊藤伊兵衛)

江戸一番の植木屋として声価が高かったのは伊藤伊兵衛です。代々伊兵衛を名乗りましたが、とくに三之烝とその子政武が有名です。三之烝は「きりしま屋伊兵衛」と称したようにつつじ・さつきを栽培し、江戸市中にひろめました。また政武はかえで・もみじの育成につとめ、「楓葉軒」と号しました。染井の地は園芸センターとなる基礎をつくったといえるでしょう。三之烝・政武のいわゆる「地錦抄」ものは、日本で最初の本格的な植物・花卉図鑑として知られています。

椿花百種

植木屋は園芸の技術者・研究家でもあり、各地から品種を寄せ集め、交配してたくさんの新種・奇種を作り出してきました。同じ花でも、その品種が数百におよぶものがあります。植木屋は明治に入ると、保有する品種を番付形式で発行したり、絵かきに写生画を描かせていますが、これを見ても植木屋が新品種をつくり、多品種を保有するのにいかに苦心し、情熱をそそいできたかうかがわれます。

近代の園芸

近代に入ると、駒込・巣鴨の園芸は新たな飛躍をとげました。駒込の植木屋らが中心となって園芸植物の輸出入を目的とする横浜植木会社などが設立され、バラなどの西洋草花の流行をみました。また鉢植から盆栽への発達がみられ、盆栽が独自の芸術として地歩を築きました。『日本園芸会雑誌』をはじめ各種の園芸雑誌が創刊されていますが、これにも駒込・巣鴨の植木屋の関与が大きかったのです。なお、豊島区域は江戸~明治期、駒込のなすなど、野菜生産地であったことも忘れてはならないでしょう。

菊づくり

江戸後期になると菊づくりがさかんになりますが、その担い手も巣鴨や駒込の植木屋たちでした。菊づくりは花壇への寄せ植えである「花壇づくり」にはじまりますが、化政期になると、一本の菊に数百の中輪を咲かせるものや、多数の菊を集めて虎・象を形どったり、富士山をつくるなど技巧をこらした「形造り」が登場してきました。この菊細工が明治に入り、団子坂の菊人形などにひきつがれていきました。

駒込・巣鴨の園芸 遊覧・植木売り

菊見・花名所

巣鴨を中心とする菊細工は、江戸市民の物見遊山の流行を背景としていました。とくに菊見は秋の景物として評判を呼んだもので、番付、双六、案内図など各種の刷り物が売られ、人気をあおりました。この菊見ばかりでなく、江戸後期には四季おりおりの花見遊覧が江戸市民の娯楽となり、花名所が江戸およびその近郊にあまた生まれました。

秋の景物として評判の菊見

縁日・植木売り

江戸後期から明治・大正の頃は、毎日東京のどこかで寺社の縁日があり、縁日といえば植木商人がつきものでした。また時節には鉢物や花を天びん棒でかついで市街をふれ売りする零細な植木屋の姿がみられました。こうした縁日やふれ売りを通じて、草花や鉢植が、一般庶民の手にもたらされていたのです。今日でも、狭い路地の軒先にいっぱいの鉢物をみることができるように、庶民生活のなかに花と緑を愛好する園芸文化がはぐくまれてきたといえるでしょう。

更新日:2015年2月25日