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空襲と防空_疎開地の子どもたち

  • 展示期間1998年6月9日から1998年9月18日
  • 図録なし

飛行機が戦争に使われるようになったのは、第一次世界大戦の時からですが、今までの兵器とは異なり、防御が非常にむずかしく、各国とも対策には苦慮しました。

新兵器を手にした勢力は、敵に打撃を与えることが可能になると同時に、その威力が巨大であればあるほど、自分たちもまた、その威力に恐れおののかざるをえないという二面性をもっています。

第一次大戦の後、将来は航空戦の時代になることが、予想されていました。日本軍も中国侵略の過程で、錦州、南京、重慶などへの都市空襲を行なっています。ですから、当然、日本自体が空襲を受けることも想定し、早くから対策を進めていたのです。

アジア太平洋戦争の初期の日本の優位が崩れ、守勢局面に入った後の1943年(昭和18年)12月に発行された『防空総論』(河出書房、国民防空叢書の1冊目)で、加藤義秀(防衛総司令部参謀)は、次のように嘆いています。

─防空に対する施策は従来動ともすれば、近視眼的な視野から、結果より批判される傾きがないではなかった。一回しか本土空襲はなかったではないか。而もちっぽけな空襲に過ぎなかったではないか。空襲判断が違ったではないか。こんなに訓練を重ねる必要はなかったではないか。そんなに都市の防空設備を整へる必要はないではないか等々。かかる俗耳に入り易い批評がどれほど防空の進歩を妨げたことか。─

せっかくの防空施策や防空演習が民衆の間に浸透しきっていない、というわけです。

加藤のいう「俗耳に入り易い批評」に次のような言は入るのでしょうか。

─ロンドンや重慶のやうに、連日連夜の猛爆を受けることは、わが忠勇なる陸海軍のある限り絶対に考へられません。連日連夜ではありませんが、それでも時たま、国内全体を通じて大都市に対しては数回乃至十数回、中小都市に数回ぐらゐの空襲は受けるでしょう。─

情報局発行の『週報』256号(1941年9月)に掲載された「家庭防空の手引き」の一節です。『週報』は大政翼賛会・町内会・隣組を通じる国家施策の民衆への徹底のための雑誌です。そこでは「近代戦に空襲は必至」としながらも、日本にはほんのわずかでしかない、といっているわけです。

これは結果からすれば、全くの根拠のない楽観論であったわけですし、一般民衆の空襲への危機意識を低めるものであったでしょう。しかし、この手引きは、空襲対策を一般家庭で(隣組を通して)いかに行なうかのものです。そこに、こうした「俗耳に入り易い批評」的な言が登場するのは、どういうことでしょうか。

新兵器の威力が巨大化し、その実態が知れ渡れば、一方で反戦非戦ないしは厭戦の気分が広まるのは当然です。それを避けて、民衆を戦争に参加させるためには、新兵器が相手には打撃を与えることがあっても、味方にはそうでない、ということを何らかの程度、言わざるをえない、これもまた、避けがたいことだったのでしょう。

(かたりべ50号より)

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更新日:2018年3月14日