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更新日:2024年4月1日

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図録(1993年度)

テレビがなかったころ落語と映画は娯楽の王様だった(完売)

図録『テレビがなかったころ落語と映画は娯楽の王様だった』

  • 展示期間:1994年2月12日から3月27日

今回の特別展では、区内の寄席と映画館の変遷を通して、豊島区という地域で育まれた「娯楽文化」について考察するとともに、都市における娯楽の変容と都市化の進行との関連について考えていきたいと思います。

I大衆芸能花盛り

このコーナーでは大正の末から昭和の初めにかけて豊島区地域内に建てられ、多くの人々が足を運んだ寄席について、東京全体の状況などとも比較しながら、都市化の進行過程における娯楽施設の展開について展示します。

II活動写真と呼ばれていた頃

豊島区に建てられた最初の映画館は大塚の天祖神社前のオヤマ館で、1916(大正5)年に開館しました。娯楽が少ない当時にあって、映画館はその後も数を増やしていき、太平洋戦争に突入する前年の1940(昭和15)年には15館を数えるようになります。

III受難の次代

1937年(昭和12年)に日中戦争に突入すると、娯楽も次第に国家の統制下に置かれていくようになります。当時、寄席も映画館も娯楽施設というよりも「社会教育機関」という認識から、出し物や上映映画に大きな変化がもたらされました。映画は積極的に国策宣伝のために利用され、映画法が制定されて映画の製作も配給も完全に国家権力の下に置かれました。

また、寄席では、噺家が新体制落語・国粋落語と称する新作落語を演じはじめました。

戦後もGHQによって異なる視点から娯楽に対する統制が実施され、落語・映画とも仇討ちなどの題材が禁じられました。

IV娯楽の復活

戦後いち早く池袋駅東口に開業したのが山手映画劇場です。戦前から営業していた日勝映画やシネマロサ・邦映座なども開業します。1947年(昭和22年)に6館だった映画館も1950年代を迎えると20館と増え、1959年(昭和34年)には38館を数えるまでに増加し、まさに「娯楽の王様」として君臨します。

Vテレビの登場

1953年(昭和28年)にテレビの本放送がはじまりました。当初は受像機が高価であったため、駅頭や商店街などに「街頭テレビ」として登場し、1958年(昭和33年)から急速に一般家庭へと普及していきます。この年を境に映画人口は激減し、1963年(昭和38年)までの5年間で半数に落ち込みます。

VIその滅びざるもの

減少を続けていた映画人口も、1970年代にはいると横這いになります。しかし寄席はもっと深刻で、現在残っているのは東京都内は4軒だけです。そのうちの一つが最近建て替えられた池袋演芸場で、江戸からの文化を伝える数少ない娯楽施設として興行が続けられています。

(展覧会チラシより)

植木屋のある風景─園芸都市の地域像をさぐる─(完売)

図録『植木屋のある風景─園芸都市の地域像をさぐる─』

  • 展示期間:1993年8月6日から10月3日
  • 価格:900円
    江戸時代後期には、四季おりおりの花見遊覧が江戸で暮らす武士や庶民の娯楽となり、多くの花名所が江戸やその近郊に生まれました。そうした花名所のひとつとして江戸近隣の植木屋を挙げることができます。彼らの庭園は、江戸の観光案内に花名所として取り上げられたり、浮世絵の題材としてその景観が描写されたりしています。当時の植木屋はいわば「小さな植物園」だったのです。
    さて、豊島区内の駒込・巣鴨地区にも、かつて多くの植木屋があり、彼らは花木栽培のために趣向を凝らした庭園をつくりました。そして、花盛りの季節には、花見遊覧の場として多くの人々が見物に訪れました。駒込・巣鴨の植木屋たちは、花木を栽培・展示・管理・販売することはもちろん、植物の品種改良の研究をして、その成果を一冊の本にまとめたりもしたのです。
    今回の展示では、このような植木屋の活躍について、さまざまな側面から光を当ててみたいと思います。そして、豊島区内にかつてたくさんあった植木屋が、今はどうしてほとんどなくなってしまったのか?いったい植木屋たちはどこへ行ってしまったのか?という素朴な疑問についても考えてみたいと思います。
    (展覧会チラシより)

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