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更新日:2024年4月1日
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私たちの街豊島区は、副都心池袋を中心に、都内でも有数の繁華街・住宅の密集地域として発展を続けています。豊島区全体を空からながめると、雑司ヶ谷霊園など緑の多い一部の地域を除いて一面住宅やビルでぎっしりといった光景です。ですから、「豊島の農業」と言われても意外に思われる方も多いかと思います。
しかし、長崎獅子舞などの農耕儀礼が残っていることからもわかるように武蔵野台地の東端に位置する豊島区地域は、江戸時代、当時世界屈指の都市であった江戸への野菜類の一大供給地として発展し、駒込・巣鴨の園芸の発展とあいまって独特の位置を築き上げていったのです。そして、近代に入っても首都東京の「農村地帯」として発展を続け、「長崎村の大根・なす・きゅうり」・「巣鴨町の小かぶ」・「巣鴨村のたけのこ」・「高田村のかぼちゃ・なす苗」などは、品質の良さもあって特に有名でした。また、現在からは想像もできませんが、明治末から大正期にかけて区内には30ヶ所近くの牧場が存在し、しぼりたての牛乳を売り歩く姿がよく見かけられたものでした。
ところが、交通網の発達や関東大震災の影響で、つぎつぎと住宅が作られ、急激な都市化とともに、緑豊かな耕地や牧場はその姿を消していったのです。
そこで、今回の特別展では、「農村地帯」であった豊島区の歩みを、昨年度実施した旧長崎地区歴史・生活資料所在調査で御寄贈いただいた貴重な資料類を中心に展示し、当時の生活や生産活動、都市化と農業などの点について考えていただければと思います。
(図録序文より)
1944年(昭和19年)8月から9月、豊島区から約1万人の国民学校(現在の小学校)3から6年生が、長野・福島・山形の各県へ旅立っていきました。(これより先に千葉県へも。)
戦局が日本の不利になり、本土空襲がさし迫ってきたことから、「帝都の防空態勢を飛躍的に前進せしめること」、「若い生命を空爆の惨禍から護り、次代の戦力を培養すること」(東京都教育局長、1944年7月16日)を目的にしたものでした。地方の親戚や知り合いの元に行く、「縁故疎開」ができない子供を学校単位で地方に送ったのです。これが「学童集団疎開」で、以後1年余にわたって子供たちは親元を遠くはなれての生活を続けました。
疎開先では学童たちはさまざまな経験をしました。ホームシック・食糧不足・飢え・シラミの発生・火事・水の事故・脱走・イジメ・農作業・木出し(マキ運び)・・・。疎開は文字どおり“子供たちの戦場”でした。それは総力戦となった現代の戦争の特徴をよく示すものとなっています。
展示では、当時の学寮の復元を始め、学童疎開で使用されたもの・学童の日記・学童と親との手紙・当時の記録・生活のようすを示す写真などによって、子供たちにとって学童疎開とは何だったのかを考えていきたいと思います。
(展覧会チラシより)
電話番号:03-3980-2351