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江戸時代の富士信仰がここに 豊島長崎の富士塚

更新日:2021年3月9日

スポット

富士山は神の宿る場所。富士山を信仰する人々が集まり、江戸時代後期に、富士山に見立てた「富士塚」を各地に築きました。

豊島長崎の富士塚は、数ある富士塚の中でも、原形をもっともよく保っており、江戸時代の庶民信仰の様相を示すものとして、高く評価されました。

多くの石造物群と富士信仰の強さ

豊島長崎の富士塚は、「富士講」の一つである月三椎名町元講の人々によって築造されました。

塚の大きさは、高さ約8メートル、直径21メートルで、表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれています。塚内には、頂上に大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)などがあるほか、講碑(こうひや)石仏(せきぶつ)などが配置され、約50の充実した石造物群で構成されており、奉納された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができます。

豊島長崎の富士塚説明板解説文

富士塚は、富士山を神の宿(やど)る場所として信仰する人々の集まりである富士講(ふじこう)によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれた。富士講は、角行(かくぎょう)を開祖とし、江戸時代中期には身禄(みろく)によって広められ、最盛期には江戸(えど)八百八講(はっぴゃくやこう)と称されるほどの講が結成されて、代表的な庶民信仰の一つとなった。

豊島長崎の富士塚は、富士講の一つである豊島郡長崎村の月三椎名町元講(つきさんしいなまちもとこう)の人々によって築造された。塚内には文久(ぶんきゅう)2年(1862)の銘記がある碑などが10基あり、これらが最も古い碑であり、「当山再建」と刻まれた碑も文久2年であることから、この年に築造されたと考えられる。

塚は、高さ約8m、直径約21mで、表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれている。塚内には、頂上に大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)、小御岳石尊大権現碑(こみたけせきそんだいごんげんひ)、烏帽子岩奉献碑(えぼしいわほうけんひ)があるほか、合目石(ごうめいし)、講碑(こうひ)、石仏(せきぶつ)、天狗像(てんぐぞう)、御胎内(ごたいない)などが配置され、約50の充実した石造物群で構成されている。また、塚の東にある浅間神社(せんげんじんじゃ)では、かつてお焚き上げが行われており、奉納された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができる。

都区内にある江戸時代築造の富士塚の中では、原形を最もよく保ち庶民信仰の様相を示すものとして重要であるという評価から、昭和54年5月21日に重要有形民俗文化財に指定された。

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