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江戸大名の寺院造営と建築様式を残す鬼子母神堂

更新日:2021年3月9日

スポット

雑司ヶ谷鬼子母神堂は、人々の祈りの場所であり、地域の心のより所として継承されています。

室町時代に掘り出された鬼子母神像をまつる鬼子母神堂は、江戸時代には、子育て・安産の神として広く信仰され、武家から庶民まで多くの参詣者が訪れました。今でも、参詣者はあとを絶ちません。

鬼子母神堂は、手前から「拝殿(はいでん)」・「相の間(あいのま)」・「本殿(ほんでん)」の3つの建物で構成される「権現造り(ごんげんづくり)」です。本殿は、寛文6年に開堂供養がおこなれ、開堂から350年目の平成28年に、国重要文化財に指定されました。

本殿・装飾

本殿は広島藩主浅野浅野光晟(あさのみつあきら)の正室(せいしつ)満姫(まんひめ)の寄進により、広島地方の大工によって建てられました。そのため、広島地域の寺社と似た装飾が施されている部分がみられます。

本殿・内部

箔押しの天井など、大名家による建築にふさわしい見事な造りになっています。納められている宮殿(厨子)は、正保3年(1646)年の造立ですが部分的に元禄期にも手が入れられています。

拝殿

本殿は広島地方の寺社建築の特徴を備えているのに対し、拝殿は江戸中期の華やかな意匠で構成されています。

相の間も壮麗ですが、装飾を簡易なものに変えています。これは寛文8年の江戸幕府による建築制限令に適応させたことをうかがわせます。

妙見堂

日蓮宗では、法華経の守護神としての鬼子母神信仰とともに、北極星の精を、息災延命を守護する北辰妙見大菩薩としての信仰もあります。鬼子母神堂と密接な関連があることから、妙見堂も附指定(つけたりしてい)とされました。

鬼子母神堂説明板解説文

雑司が谷(ぞうしがや)の鬼子母神(きしもじん)は、永禄(えいろく)4年(1561)に清土(せいど)(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正6年(1578)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永(かんえい)2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿(くうでん)が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。

現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿(はいでん)」・「相の間(あいのま)」・「本殿(ほんでん)」の3つの建物で構成される「権現造り(ごんげんづくり)」。本殿の開堂供養(かいどうくよう)は寛文(かんぶん)6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)に建てられた。広島藩(ひろしまはん)2代目藩主(はんしゅ)浅野光晟(あさのみつあきら)の正室(せいしつ)満姫(まんひめ)の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻(つま)を飾る梁(はり)や組物の彫刻には広島地方の寺社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。

これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠(いしょう)的に価値が高いという点が評価され、平成28年7月25日に重要文化財に指定された。

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