マイページ

マイメニューの機能は、JavaScriptが無効なため使用できません。ご利用になるには、JavaScriptを有効にしてください。

マイページ一覧と使い方

ここから本文です。

豊島長崎の富士塚

豊島長崎の富士塚

<重要有形民俗文化財>

富士塚は、富士山を神の宿る場所として信仰する人々の集まりである富士講によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれたもの。最盛期には江戸八百八講と称されるほど数多くの講が結成されて、代表的な庶民信仰の一つとなった。

豊島長崎の富士塚は、富士講の一派である月三講(椎名町元講)によって、文久2年(1862)に築造された。高さ約8メートル、直径約21メートルで、塚全体が熔岩でおおわれている。旧長崎村の地域内に所在し、現在は住宅密集地帯となった高松商店街裏手の浅間神社の境内(高松2丁目)にあって、旧長崎村の講中によって信仰維持されてきた。形状もよく保存され、一般に「長崎富士」とも呼ばれている。

塚全体の形状は、間口が広く奥行きの狭い、正面からの形状を優先した富士山として築かれており、そのため正面の形は左右に末広がりに尾根を延ばし、頂上近くの勾配を急にし、頂上を平坦にするといった、絵になった富士山をそのまま形にしたという感じでつくられている。

石碑の数は多く、頂上にある石祠と大日如来坐像をはじめ、文久2年築造当時に造立されたものから、文久3年の永田講の講碑のほか、明治以後の講碑も多く見られる。

東京都区内にある江戸時代に築造された富士塚の中でもよく原型をとどめ、庶民信仰の様相を示すものとして重要であることから、昭和54年5月21日に国の重要有形民俗文化財に指定された。その後、その美観と偉容を永く後世に伝えるため、昭和62年には昭和大修復が行われ、以後浅間神社豊島長崎冨士塚保存会によって、高木剪定や黒朴石の据え直しなどの維持管理を含めた保存修理事業が定期的に実施されてきた。ところが、平成23年3月11日に発生した東日本大震災により、頂上付近裏側の黒朴石の広範囲にわたる崩落や、講碑などのぐらつきなど甚大な被害を受けた。そのため、平成24から25年にかけてレーザー測量による調査と大規模な修理が行われ、復旧が図られた。

お問い合わせ

庶務課文化財グループ

電話番号:03-3981-1190

更新日:2022年10月25日