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豊島区の歴史をみてみよう

大正から昭和へ

アトリエ村イメージ

関東大震災(かんとうだいしんさい)の後で、豊島区に移(うつ)り住む人はどんどん増えていきました。

◆まちのようす

鉄道が発達したことにより豊島区のまちは交通が非常に便利になりました。それにより豊島区に住まいを求めて人が集まってきました。当時の記録(きろく)では、豊島区に住む人の数が20万人を超(こ)えていました。

やがて、日本全体がそうであったように、豊島区も太平洋戦争の時代に入ります。戦争が長引くなかで空襲(くうしゅう)がはじまり、豊島区も大きな被害を受けるようになりました。まちが燃えて失われていくなかで、池袋に近いところに建てられたアトリエ村の大部分も戦争により焼けてしまいます。子どもたちが戦争の被害から守るため、集団疎開(しゅうだんそかい)といって長野県や福島県移り住んだのもこの時期です。

◆池袋モンパルナス

熊谷守一美術館
(熊谷守一美術館 熊谷守一も池袋モンパルナスで活躍した芸術家の一人です)

当時のようすとして特に目立っていたのが、今の長崎や千早にアトリエ村と呼(よ)ばれる住まいがあったことです。創作活動(そうさくかつどう)をするための部屋が備(そな)わった家には、絵や彫刻(ちょうこく)といった芸術について勉強をする学生が中心となって住んでいました。
若き芸術家(げいじゅつか)の卵が特に集まって住んでいたこの地域(ちいき)を池袋モンパルナスと呼ぶようになったのは、芸術の都パリにたとえて詩人の小熊秀雄(おぐまひでお)が名付けことから始まりました。

彼らは絵や彫刻(ちょうこく)といった芸術作品を創作(そうさく)するとき、あるいは朝夕(あさゆう)の食事をとるときといった色々な場面で生活をともにしていたそうです。また、昼は芸術作品の創作(そうさく)を行い、夜になると池袋のまちに出てきて喫茶店(きっさてん)などの場所で、芸術にまつわる話や、将来の夢・希望といったものを語り合っていました。

*池袋モンパルナスについて、もっと詳(くわ)しい内容(ないよう)をお調(しら)べになりたいときは郷土資料館(きょうどしりょうかん)のホームページをご覧(らん)ください。
 郷土資料館 池袋モンパルナスのホームページ

 

大正から昭和へかけて育(はぐく)まれてきた芸術(げいじゅつ)・文化(ぶんか)を発信(はっしん)する力はまちの大きな魅力(みりょく)となって今に引(ひ)き継(つ)がれています。
 まちの紹介『長崎・千早』のページへ

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更新日:2015年7月10日