ホーム > キッズページ > 豊島区の歴史をみてみよう > 近代化のはじまり
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江戸時代が終わり、新しい時代を迎(むか)えました。江戸が東京へと名前が変わったことをはじめとして、社会全体でさまざまな改革(かいかく)が行われていくなかで、豊島区のまちのすがたも大きく変化していきます。
この頃の豊島区は農地(のうち)が広がり、近郊農村(きんこうのうそん)として、おもに野菜(やさい)をつくり、東京の中心部へ出荷(しゅっか)していました。まちの姿(すがた)が大きく変わり始めたのが、明治18年(1885年)3月、日本鉄道(いまのJR)の赤羽と品川の間で鉄道が走るようになり、目白駅が開業(かいぎょう)したときからです。やがて池袋と田端の開でも鉄道が走り始め、大塚・巣鴨・池袋駅も作られました。
山手線の発達で交通が便利になると、豊島区に新たに移(うつ)り住む人が増(ふ)えました。農村だった豊島区に家やお店がたくさん建てられるようになったのです。
明治40年代以降(いこう)、学習院大学(がくしゅういんだいがく)、大正大学(たいしょうだいがく)、立教大学(りっきょうだいがく)が豊島区に移(うつ)ってきました。これにより豊島区は学生のまちとしての姿(すがた)を整(ととの)えていきます。
(染井吉野桜記念公園は駒込がソメイヨシノのふるさとであることを記念して名づけられました)
駒込や巣鴨の植木屋(うえきや)たちは植物の栽培(さいばい)技術がたいへん優(すぐ)れていましたが、植物のことを研究することに対しても非常に熱心(ねっしん)でした。「ソメイヨシノ」の日本各地への普及(ふきゅう)は、こうした植木屋(うえきや)たちの活躍(かつやく)によるものです。
ところで、このソメイヨシノはもともと「吉野桜(よしのざくら)」という名前でした。しかし、奈良県にある吉野山(よしのやま)の山桜(やまざくら)も同じく「吉野桜(よしのざくら)」という名前がついていました。
それぞれ違(ちが)う桜(さくら)ですが、同じ名前だと間違(まちが)えられることが多くなるので、明治33年に植物学者(しょくぶつがくしゃ)の藤野寄命(ふじのきめい)により、染井の地名を加えた「ソメイヨシノ」と新しく名づけられました。それからは、この名前で親しまれています。
豊島区の近代化のなかで生まれた「ソメイヨシノ」。桜のほかにもまちを彩(いろど)る花は豊島区にたくさんあります。
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