ホーム > 文化・観光・スポーツ > 生涯学習 > 図書館 > 刊行物・図書館 > 図書館通信 > 図書館通信第63号(2022年春号)テキスト版

ここから本文です。

図書館通信第63号(2022年春号) テキスト版

 巻頭言

「90周年を迎え 過去と未来をつなげる本と図書館」 豊島区長 高野 之夫(たかの ゆきお)

 早いものでこの場所に豊島区立中央図書館が移転して15年。図書館通信も63号を迎えました。ときの経つのは早いものです。
 改めてふり返ると、豊島区が文化都市への大きな転機になったことを思い出します。
 私が豊島区長に就任した当時は、財政破綻寸前の危機的状況で、新しい施設の建設など、ましてや文化施設の建設など考えられませんでした。しかし、前加藤一敏区長からは中央図書館の移転と新設を申し受けました。
 区長になって粕谷一希先生(※)のお宅を訪問し、豊島区のために、特に文化行政の推進のご指導を頂戴いたしました。
 先生からは、自ら歩んできた文化の道、残された人生を、豊島文化都市の創造に捧げたいとの熱い想いをいただきました。そして粕谷先生の人脈により「ふるさと豊島を想う会」を小田島雄志先生と共に結成されました。
 粕谷先生には図書館、小田島先生には劇場と。まさに豊島区が文化都市としてのスタートを切ることが出来ました。
 粕谷先生は、「まず豊島区に文化を育てるのが図書館である。これからの図書館は書物の貸し出しだけでなく、書物への愛情を育む場所であり、書物を介して真の読書人になる場所でなければならない。そして地域社会の歴史と地理への理解を深め、未来文化・未来社会の創造に役立つアドバイザーでなければならない」と…。
 先生のおかげで誇りに思える中央図書館が完成し、区民のみならず大勢の方々から愛される拠点としてとしまの文化を創り上げてきました。
 10年前の区制80周年に、「充実した図書館をつくりたいという思いもあり、ゆくゆくは図書館長になろうと思っているくらいなんです」とインタビューで答えたことを覚えております。いつか私も過去と未来をつなげる本に囲まれた図書館長になれる日がくるのでしょうか…。
 豊島区は「国際アート・カルチャー都市」そして「SDGs未来都市」として日本の文化を牽引する都市になりました。今、豊島区は大きく変わろうとしております。「過去に学び、今日を生き、未来への期待」。
 この90周年に、豊島区を次なる100周年に向けて大きく飛躍する都市にしてまいりましょう。


※ 粕谷 一希(かすや かずき):平成18年豊島区行政政策顧問に就任(~平成26年)。『図書館通信』の編集指導・助言を行い、巻頭随筆を執筆。平成20年開催「時代を変える図書館サミット」を実行委員長として推進し、「マニフェスト」を発信した。

記憶のなかの人たち

第5回 「秋山ちえ子さんの男友達」 NPO 法人「としまの記憶」をつなぐ会副代表理事 小櫻 英夫(こざくら ひでお)

 「昼の話題」「秋山ちえ子の談話室」と、優に二万回を越えるラジオ番組を続けられた秋山ちえ子さんとは、50年以上の付き合いだった。
 TBSに入社して最初の配属がラジオ制作。右手に白い革表紙のネタ帳、左手にストップウォッチを持った秋山さんは颯爽としていた。リハーサルも全くない生放送で、ピタリと時間通りに終る技は、まさにラジオの職人。
 直接の担当ではなかったが、何度か話した。「日常の暮しの中から話題を探すのが大切」との秋山さんのラジオ論は忘れられない記憶。
 テレビ現場での長い生活の後、再びラジオに戻ったのは30年後。秋山さんは以前にも増して精力的だった。
 常に周りには多くの人たちが集まっていた。何故だかほとんどが女性。特に秋山組の代貸役のシャンソン歌手石井好子さんの号令による集まりは賑やかだった。編集者、新聞記者などに混じって、女優の藤村志保さんも常連。
 秋山さんはニコニコと笑いながら、控え目に短く発言。ここでの話題がいつしか数日後のラジオのネタになる。

 最後は最年少参加者の森山良子さんが「さとうきび畑」をザワザワと熱唱して終了。
 そんな会合に誘われてしばしば参加した。


 80才近い秋山さんに聞いたのが「100才まで生きる会」。
 「最近、女性が強くなって元気なのは良いけど男達が少し心配。この際、元気な男達と結社を創った。100才まで生きる密約。若いあなたが結末を見届けてね」と。
 12才年上の島田正吾、6才年上の日野原重明そして秋山ちえ子がメンバーだと言う。家が近い新国劇の名優島田正吾さんは90才を過ぎても新橋演舞場を「一人芝居」で満員にし、聖路加国際病院の日野原さんは100才過ぎても現役の医師として活躍された。
 秋山さんに連れられて何度かお合いしたお二人。島田さんは98才で、秋山さんは99才。ゴール寸前で倒れられ、日野原さんだけが100才まで現役医師として会を卒業された。

プロフィール

昭和17年(1942)大阪生れ福岡育ち、昭和40年(1965)TBS入社ラジオ・テレビの制作担当、平成21年(2009)大正大学表現学部教授

プロ野球「西鉄ライオンズ(現西武)」を愛し続ける九州男の気質が抜けない。大正大学の学生たちとNPO法人「としまの記憶」をつなぐ会の映像制作を続けている。

図書館と私

まちの中での場の創出 第1回「移動図書館の歴史」 豊島区図書館課 織田 寿太郎(おだ じゅたろう)

 図書館は、多くの人にとって身近な場所であり、多くの人に利用されるべき場所です。しかし、豊島区立図書館は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、一時的に閉鎖せざるを得ない時を経験しました。その際に、多くの利用者から「図書館を開館して欲しい」とのご意見をいただきました。いつでも誰にでもひらかれた場所である図書館は、持続可能な運営ができる体制を整えていく必要があることを痛感するとともに、ある存在を思い出させました。社会情勢の変化への対応と図書館の内外にとらわれず読書環境を整備するために誕生した移動図書館です。
 かつて図書館は多くの人にとって遠い存在でした。戦前の日本の図書館の多くは入館料を徴収し、館内閲覧がもっぱらで、貸出は有料であったり、貸出を利用できる者の資格を制限していました。戦後、「図書館はなにをすべきか」という模索が始められ、整理中心・保存中心の図書館からサービス中心の、市民に喜ばれ愛される図書館への転換が叫ばれるようになりました。しかし、当時はまだ図書館の数が少なく、また庶民の身近な生活空間に必要不可欠なものであるといった認識も薄く、社会の土壌が「身近な図書館」を育てられるほど成熟していませんでした。そこで期待されたのが移動図書館です。図書館の数が少ないという状況を打破し、図書館サービスを多くの人に行き渡らせるため、都内では1965年以降、続々と移動図書館が誕生し、豊島区においても66年から「あけぼの号」が導入され図書館事業を支えました。しかし90年代に入り、各自治体で図書館網が整い始めると、移動図書館は相次いで廃止され、「あけぼの号」も94年に運営を終えました。
 歴史的役割を終えたように思われる移動図書館ですが、「誰一人取り残さない、誰もが主役になれる」豊島区の「にぎやかな公共図書館」を目指すため、まちのあらゆるところに読書の楽しさに触れることができる機会を創出する場として、その存在を見つめ直す必要があるのかもしれません。

プロフィール

平成25年4月に豊島区入区。平成31年に図書館課に配属。大学で博物館学芸員資格を取得。

生涯の一冊 『心は孤独な数学者』 藤原正彦著 新潮社 1997年 版元品切れ・文庫版刊行中

「天才数学者は神の光を見たかった」 書家・金澤翔子氏の母 金澤 泰子(かなざわ やすこ)

 我が子の障害を奇跡で治してくれと神に執拗に祈り、神の光を見たいと希求していた頃、「数学者は神の声を希求している」の一文を目にしてこの本を買った。
 ペダンチックな言葉で展開される、稀代の天才数学者・ニュートン、詩人で数学者のハミルトン、敬虔なヒンズー教徒のラマヌジャンの三人の物語。
 私はワクワクと一気に読み終えた。
 1642年ニュートンはガリレオ・ガリレイの亡くなった年に生まれる。イギリスでは魔女狩りが吹き荒れていた時期で、デカルト、ケプラー、パスカル等々、キラ星のごとく天才が出現した時代であった。レンブラントの「夜警」もこの頃に描かれた。1665年のパンデミック(ペスト)で大学が閉鎖され感染から逃れるために故郷に帰り孤独の中でリンゴが落ちるのを見て、かの有名な万有引力を発見した。1687年に自然科学の歴史で最も重大な自然哲学の数学的な原理『プリンキピア』を完成させた。当時、流行った「薔薇十字会」に入り神秘主義と錬金術と数学を統合して自然への洞察を得て「天使を呼び出し神の声を聞こう」としていた。科学界に君臨する栄誉も富も得ていたけれど、その心は孤独に苛まされ84才でなくなった。
 ハミルトンは数学者で詩人であった。幼少時から天才の様を呈していた彼が部屋に入って来るとそのオーラにより辺りがパッと明るくなったと記されている。19才で陥った美しい人とのままならない恋を30年以上も激しい情熱と執念で追い続ける。この強烈な情緒と執念で数学にも立ち向かった。1843年、閃きにより四次元数の基本式を橋の端に刻んでいる。この発見から20年を経て60歳でなくなる。
 1887年ラマヌジャンは熱心なヒンズー教徒として生まれる。ほとんど独学である。純粋数学は全ての学問のうちで最も美しさを必要とすると説いている。
 三人共深く神を信仰していた。最も論理的な数学がもっとも非論理的な神に依拠していた。そして三人は悲劇的な生活であり、寂しさに貫かれた一生であった。

  天才の生涯は孤独であることが痛感させられる本であった。

プロフィール

書家・金澤翔子氏の母。1943年、誕生。1966年、明治大学卒業。1977年、書家・柳田流家元に師事。1985年、翔子誕生。1990年、東京に書道教室開設。著書 「「天使の正体」、「天使がこの世に降り立てば」「金澤翔子の一人暮らし」をかまくら春秋社、「翔子の書」を大和書房、「翔子」を角川マガジンズ、「涙の般若心経」を世界文化社、「心は天につながっている」、「悲しみを力に」をPHP研究所、「金澤翔子」を平凡社、「つきのひかり」を美術出版社、「共に生きる 金澤翔子」を芸術新聞社 などを多数出版。久が原道教室主宰。東京芸術大学評議員。日本福祉大学客員教授。

この本カフェ

寄稿者はとしまコミュニティ大学の内、登録して学んでいる「マナビト生」です。マナビトゼミ担当・当中央図書館開催の書評講座講師の佐藤壮広氏の監修のもと、毎回テーマに合わせて文学、児童書、科学や評論などの分野のお薦め本を紹介しています。

27杯目 「祝い」

 世界のお祝いの文化はじつに多様だが、集団でその祝う気持ちを分かち合うという点は共通している。そこには儀礼や作法という形をとった「ことば」がある。大きく見れば、ことばでつくられる本も人間の生(せい)を寿ぐものに思えてくる。

 

書名『 諏訪の御柱(みはしら) 陰陽五行に秘められた諏訪信仰と古代史の謎』田中清文著 ほうずき書籍 2016年

 寅年の今春、信州・諏訪地方は6年周期での第205回諏訪御柱祭。1200年の歴史の諏訪大社「式年造営御柱祭」では、凝縮された3か月の間に諏訪人気質が発露する。残雪の山出し、氏子の里曳き、急斜面落下の圧巻の木落し、総締めに上社・下社に16本の建て御柱と、その壮健な流れは江戸時代から。
 本書では、陰陽五行が秘められたこの基層諏訪信仰を古代の諏訪祭政体態とみる。その天人相関の思想は、全国8000余の諏訪神社の祭祀として形をなしている。さらに、諏訪地方などで発掘された銅鐸・鉄鐸や、周辺の道祖神、石皿・石棒など諏訪文化とこの思想的源泉との関連の示唆も、非常に興味深い。

 【 中谷 範行( なかや のりゆき)】

  

書名『 小笠原流 やさしさが伝わる日本の礼法』前田紀美子著 玉川大学出版部 2008年

  マスク、黙食、オンライン○○…、コロナ危機は私たちの生活を一変させ、おつきあいも疎遠になり、祝いの儀式も簡略化しました。
 本書は武家礼法である小笠原流礼法により、冠婚や五節供などの人生や季節の祝いを詳しく解説した、読み応えのあるバイブルです。理にかなっていて美しく、非接触。人と気持ち良く接するヒント満載。しきたりの由来や作法を読み解くと、時代やTPOと共に変化しつつ受け継がれてきた日本の伝統に触れられます。
【 水埜 多喜子( みずの たきこ)】

 

書名『 広告の会社、つくりました』中村航著 ポプラ社 2021年

 1年3ヶ月間務めた広告会社が倒産して、無職となったデザイナー健一。天津功明広告事務所に面接に行ったその場で、コピーライター天津から仕事と留守番を頼まれてしまいます。倒産の遠因にもなった住宅会社のカタログデザインのコンペには、法人格がないと参加できず、じつはそのコンペはもともと大企業の“出来レース”だったことが明らかに!
 自分の人生の当事者になること。仕事は一人ではできないことや、楽しいものだったんだ♡(ハート)と思い出させてくれる新鮮な物語です。


【 砂塚 寛子( すなづか ひろこ)】

 マンガ・アニメで多文化理解!? 7つの国と地域の学生がお互いの文化を楽しみながら学び・共感したことは

「東アジア文化都市2019豊島」でも、西安(中国)と仁川(韓国)と豊島区をつないだ一つの文化が日本のマンガ・アニメ。多文化共生の視点で一度読み終わったマンガ・アニメを手に取ると…。そこには「相手を知る・自分を知る」新たな発見が!!

東京外国語大学オープンアカデミー短期日本語・日本文化研修プログラム「アニメ・マンガを使って探究をしよう!」受講学生の連載コラム。2022年1 月〜2月、東京外国語大学にてオンライン日本文化研修が実施された。国内外の学生がZoomで繋がり、アニメ・マンガから日本文化の特徴を探究した。

第1回 「「違和感」は、「多文化共生」への入り口」東京外国語大学国際日本学部4年 米村 雪乃(よねむら ゆきの)

 私は幼稚園の頃から『ドラえもん』が大好きでした。漫画は全巻何度も読んで、アニメも録画してセリフを覚えるほど見ていました。弟も同じくドラえもんの大ファンで、一緒に楽しんでいたのを覚えています。それだけ思い入れのあるドラえもんですが、これが研究の題材になろうとは思ってもいませんでした。
 プログラムの中で最も印象に残っているのは、テーマ決めです。自分で考えている段階では、「ひみつ道具」に着目したいと思っていました。昔話がモチーフのひみつ道具、招き猫やタヌキといった動物がモチーフのひみつ道具、だじゃれを使ったひみつ道具など、私が考える「日本文化」がたくさん詰まっていたからです。ですが、結局私たちのグループはのび太の家、すなわち「住居」をテーマにすることになりました。先述のとおり、私は何度もドラえもんを見ています。ですが、一度ものび太の家に注目したことはありませんでした。なぜなら「違和感」を感じたことがなかったからです。これが日本文化の一部だとは気が付きませんでした。韓国人のメンバーが「日本の家は、一軒家が多いのですか?ソウルは、ほとんどがアパートです」と言ってくれたことで、私はそれが日本文化だということに初めて気づくことができました。そしてそれがテーマになったのです。
 多くの人、特に多様なバックグラウンドを持つ人たちが集まると、皆が様々なところに「違和感」を持ちます。「違和感」は、溝を深めることもあります。自分とは違うのだという感覚がどんどん溜まり、最終的に「自分の文化はこうなのだから、そっちもこうしろ」というように自分の考えを押し付けるようなことが起こると、大きなトラブルに繋がりかねません。そして厄介なのは、誰がどこに「違和感」を感じているのか、必ずしもわからないということです。逆の視点から見たら、それは当たり前の日常で気に留めたこともないものだった、ということも少なくありません。これがまた誤解を生んでいくのです。しかしこのプログラムを通して、「違和感」は必ずしも悪いものではないのだと気付くことができました。「違和感」は研究の入り口であり、ひいては多文化共生を実現する鍵でもあるからです。
 当たり前のことながら、多文化共生は文化を画一化することではありません。そして、文化の違いに目をつぶることでもないと思います。自分とは違う文化に出会ったときに、その文化について知り、楽しんでいけたら、多文化共生社会への第一歩になるのではないでしょうか。そして、きっかけは私達の日常生活にあふれています。単なる娯楽として楽しんでいる漫画やアニメも、その一つです。こういった文化の差という切り口から漫画やアニメを見てみると、また違った面白さがあるかもしれません。私はこれからも、多様な文化の中に潜む小さな「違和感」から大きな「違和感」まで、すべて楽しみながら学んでいきたいと思います。


監修 東京外国語大学 講師 幸松 英恵(ゆきまつ はなえ)

プロフィール

専門は日本語学。豊島区図書館経営協議会委員。

図書館から見る豊島区の歴史

図書館というものは、これまでどのような道をたどり、今後どのような役割を果たしていくのでしょうか。 区制施行90 周年を迎えた豊島区の区立図書館が歩んできた歴史を振り返り、未来へ向けた展望をご紹介します。

 第1回 「進化する図書館 サードプレイス、コミュニティとしての図書館」 大正大学教授・附属図書館長 稲井 達也(いない たつや) 

  図書館は社会教育施設であり、生涯学習の場である。しかし、この10 年を見渡すと、図書館の役割も大きく変化してきている。それはコミュニティづくりの拠点という役割である。これまで全国のさまざまな公共図書館を見てきたが、特に地方都市においては、まちづくりの一つの手法として図書館に役割を持たせるようになっている。家庭でもなく、職場でもなく、第3 の場所"サード・プレイス"が生きていくうえでは必要であり、図書館もその一つである。
 少子高齢化や核家族化により、家族も一人暮らしの人びとも孤立しやすい。コロナ禍による自粛生活が孤立を加速している。孤立という点では、東京も地方都市も大きく変わらない。失われた人々のつながりが生まれる場をつくり出すため、コミュニティ・スペースを併設した複合的な図書館や、書店やレストランを併設した図書館など、さまざまな試みが見られる。たとえば、長野県小布施町立図書館` まちとしょテラソ`は、小学校に隣接した平屋の図書館である。図書館の構想段階から町民が参加し、町と町民が何度も会議を開き、ともに考え、コミュニティの拠点となるような図書館をつくった。明るい光の差し込む館内は広々としていて全体を見渡せる。全てが同じフロアーの中にある。さまざまな世代が同じ空間にいることを前提にした設計になっていた。
 ただし、気をつけなければいけないことはある。ある地方都市では、お洒落な図書館の中は多くの人びとがいるにもかかわらず、一歩外を出るとシヤッター商店街が広がっているという現実があった。必ずしも成功事例ばかりでではないのである。図書館が地域とともに共存していくという、でしゃばりすぎない視点が行政には必要である。
 図書館がコミュニティの一つになり得るとはいっても、ただ開館しているだけでは人びとのつながりは生まれない。さまざまな仕かけが必要である。たとえば市民による自主的な講座を支援するというのは、学びの場をつくりだすための一つの仕かけである。行政が何もかもお膳立てするというサービス的方法では、長くは続かない面がある。
 本学では、コロナ禍の中、2020 年11月、新たな附属図書館がグランドオープンした。本学の教育理念である「智慧と慈悲の実践」を踏まえ、地域に公開し、学生、教職員、区民が出会い、ともに学び合う多様性のあるサード・プレイス、学びを軸にしたコミュニティにしようと計画していた。コロナ禍にあっても、昨年10月には、附属図書館ではSDGs リレー講座を開催し、YouTubeでも配信した。本学の教員、学生や卒業生、外部の講師が登壇し、コロナ後を視野に入れた新たな学びの場を提案したつもりである。
 私は、公共図書館はもとより、教育資源の一つである大学附属図書館が地域のコミュニティの場として、出会いと学びをつくりだしていくことが大切だと考えている。豊島区という地域の中に、新たな「学びのコミュニティ」が立ち上がることを実現したい。それが豊島区というコミュニティにおいて、「誰一人取り残さない社会」の実現に向けて、大学図書館ができる"小さな一歩"にほかならない。

プロフィール

1962(昭和37)年東京生まれ。上智大学文学部、筑波大学大学院修了。博士( 学術)。都立高校、都立中高一貫教育校など4校で国語科教諭、東京都教育委員会指導主事、日本女子体育大学教授を経て、2020(令和2)年より大正大学教授、附属図書館長。専門は、教育学、国語科教育学、学校図書館学。

 

特別展示『熊谷守一の世界』

 独特な画風で現在も多くの人々を魅了し続ける画人・熊谷守一。中央図書館では、区制90周年を迎える最初の展示として、熊谷守一の世界を令和4年5月26日まで豊島区立中央図書館にて紹介しています。52歳から晩年までを千早の地で過ごし、多くの作品を残した守一は、いったいどのような人物だったのでしょうか。
 展示のテーマは、「繋がり」。守一が表紙絵を描いた雑誌『婦人之友』を刊行している区内の出版社婦人之友社と、守一の故郷である岐阜県の岐阜市立図書館と豊島区立図書館が繋がり、自然・土地・文字活字を通した守一の世界をお届けします。展示に合わせ岐阜市立図書館よりご寄稿・区制90周年のお祝いのことばをいただきました。

 熊谷 守一(くまがい もりかず)

 1880~1977年 岐阜県出身の画家。1932年豊島区長崎町(現千早)に移り住み、生涯にわたり生活する。旧宅地跡に立つ豊島区立熊谷守一美術館では、油絵、墨絵、書など多岐にわたり守一作品が楽しめる。

『モリカズの森(ニワ)』展示によせて 岐阜市立図書館

 画家の熊谷守一は岐阜市と豊島区にゆかりのある人物です。父の孫六郎は実業家であり、初代岐阜市長に就任した政治家でもありました。守一は岐阜県恵那郡付つけ知ち (現在の中津川市付知町)に生まれたのですが、父の仕事の関係で3歳から岐阜市で過ごし、17歳で上京して画家の道を歩みました。そのご縁から岐阜市役所の市長室には、守一の書「岐阜」が飾られています。
 晩年の守一は、豊島区に建てた自宅で過ごすことが多かったといわれています。昼間は庭で夜はアトリエで過ごし、庭で出会った鳥や昆虫、花などをモチーフに多くの作品を描きました。守一にとって庭は“小さな生き物たち”と暮らす、お気に入りの小宇宙のような空間だったのでしょう。
 岐阜市立図書館では、この庭のイメージを来館者に感じとってもらいたいと思い、『モリカズの森(ニワ)』と題した展示を製作しました。豊かに生い茂る緑や昆虫は切り絵で作り、花々は写真で飾り、当館に所蔵する熊谷守一関連資料とともに多くの来館者に見ていただきました。製作にあたり、“みんなの森 ぎふメディアコスモス”で開催された『「メディアコスモス新春美術館-没後40年熊谷守一展」展覧会画集』を参考にしました。とりわけ、守一の最晩年を取材した写真家・藤森武氏による熊谷守一邸の再現図でイメージを膨らませることができました。
 この展示が豊島区と岐阜市のかけ橋となり今後も交流が続くことを願っています。
 令和4年度には豊島区制90周年を迎えられるとのこと、末筆ながらお祝いを申し上げます。

 

新航路

「『図書館の歴史』をのぞいてみました」

 中央図書館は、オープンして15年が経過したことから、今年の6月に移転後初めて廊下やトイレなど共有部の修繕とリフレッシュルームの壁の塗り替えなどを行います。図書館基本計画(第二次)では、多くの方に来館してもらえる図書館を目指していますので、少しでも気持ちよく利用していただけるよう工夫していきたいと思っています。

 先日、図書館の歴史を紐解く機会がありました。東池袋4丁目にあった旧中央図書館を覚えていてくださっている方も多いと思いますが、これは昭和54年に開館した施設で、実はその20年ほど前の昭和33年に、旧区役所(東池袋1丁目)の隣の建物(豊島振興会館)の3階に豊島図書館が開館しています。当初は閉架式の図書館(閉架書庫にある本を借りるイメージです)で、個人への貸出が始まったのは8年後の昭和41年でした。また、同じ年、移動図書館「あけぼの号」の運行もスタート。たくさんの本を車に乗せ、区内を巡回しながら皆さんに本をお届けしていました。到着のアナウンスをするとたくさんの方が集まってくださったそうです。
 そして、昭和43年には巣鴨図書館、昭和45年には点字図書館「ひかり文庫」、さらに昭和46年には千早図書館が開館しました。開館当初は、入り口に長い列ができ、建物の外で大勢の子どもたちが本を読む、「にぎやかな公共図書館」そのままの写真が今も大切に残されています。
 豊島区制90周年の歩みの中で、図書館も歴史を紡いできました。次の100周年に向けて、区政の動きを敏感にとらえながら柔らかく、皆さんに親しんでいただける図書館をめざしていきたいと思っています。

 図書館通信

図書館通信のトップページに移動します。

お問い合わせ

図書館課サービス基盤グループ

電話番号:03-3983-7861

更新日:2022年3月30日