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自室の壁に一枚の絵がかかっている。丘陵とそこに建ち並ぶ団地が柔らかに彩られ、そこに描かれた長閑な青い空には白い雲がぽっかり浮かんでいる。絵の中で、青年が両足をゆったりと前に放り出し、部屋の窓から景色を眺めている。穏やかな時間が流れている。
それは私の高校時代の友人M君が二十歳前後に描いた初々しい絵だ。M君は学校では図書委員だった。絵の道を志すと決める際は真っ先に司書の先生に相談していた。子どもの頃はいつも移動図書館を楽しみにしていたらしい。読書はM君の豊かな情緒を培っていた。私はと言えば、楽しいはずの学校が楽しくなくなっていた。当時、経済・社会情勢を背景に、勉強は競争の手段と化していた。私には勉強が人の格差を生みだすものとしか思えなくなり、学校の勉強が手につかず落ちこぼれていった。M君はそんな私を図書館に優しく誘ってくれた。図書館には豊かな世界が広がっていた。私の中で何かが変わっていった。
その後、夢を追いかけていたM君は20代半ばに突然、不幸な事故で命を落とした。ご家族、そしてM君を愛するすべての人たちの中で時計の針が止まった。
私はまだM君に深い感謝の気持ちを伝えきれていなかった。
それから約40年、M君はみんなの中に生き続けている。気がつくと、私は国際連合広報センター(UNIC)で、「持続可能な開発目標(SDGs)」を合言葉に、学校図書館を含め、全国各地の図書館をゆるやかにつなぐ仕事をしていた。
今年1月、UNIC主催の図書館研修会で、豊島区の清和小学校と巣鴨図書館、大正大学図書館から、子どもたちの読書推進のために互いに連携して取り組んでいる事例を共有してもらった。素晴らしかった。その実践が今後、さらに発展し、全国各地に広がってほしいと願う。子どもたちを対象にした様々な図書館の連携はまだあまり例がないと思うが、それは多くの子どもたちの多様な可能性を拓き、より良い地球の未来をつくることにつながっていくはずだ。
本稿執筆を終えて、M君の絵を見た。絵の中の丘陵を優しい風が吹き抜けた気がした。
プロフィール
1959年生まれ。1989年からUNIC勤務。在職中、メディア対応や翻訳、図書館、ウェブサイトなどを担当した。講演多数。今年3月定年退職。
仙台文学館で、一年をひと区切りとして行っているエッセイ講座では、「課題」のあるテーマで二回書いてもらった後、最後は「自由題」で提出してもらっている。例えば、2023年度の課題は「食」、「動詞をタイトルにする」といった具合。
受講生に訊くと、課題があるほうが書きやすいという声があれば、自由題のほうが好きなことが書けていい、という意見もある。自由題に関しては、「書きやすいと思ったけれど、難しかった」「焦点を絞るのが難しかった」などの声が聞かれ、おおむね課題があった方が書きやすい、という声が多い印象を受ける。
課題が与えられていれば、なぜその課題で書くのか、ということを説明する必要がないが、自由題の場合は、なぜこのテーマ、題材で書くのかについての、理由づけの説明が必要になってくる。何を書くのか、ふだんから考えたり、観察をしていたり、今までの人生の中での、忘れられない人や出来事など、前から温めていた題材やとっておきのテーマを書く、という場合は、自由題のほうが書きやすいこともあるだろう。
河野多惠子さんの小説指南の書によれば、「書きたいもの」と「書きたいこと」はちがっており、「書きたいもの」はただのお話にとどまっている段階だが、「書きたいこと」は作者の心、精神と切り結んだモチーフであるという。
今年の「食」の課題作品では、亡くなった父について、二品だけだった手料理のレパートリーを通して描いた作品が印象的だった。この場合、父の思い出を書こうという時点では、まだ「書きたいもの」であり、課題にうながされて、堅物な父が〈鍋のかかっているコンロの前にパイプ椅子を置いて腰かけ〉、本を読みながら「牛すじの甘辛煮」と「肉団子と春雨のスープ」を作っている姿を心に浮かべたところで、「書
きたいこと」となったと察せられる。エッセイは、「課題」「自由題」を問わず、具体的な「書きたいこと」を発見することからはじまる。
プロフィール
1959年仙台市生まれ。首都圏で電気工などの職業に就きながら、海燕新人賞を受賞してデビュー。『ア・ルース・ボーイ』で三島由紀夫賞を受賞した後、帰郷して作家活動に専念する。『鉄塔家族』で大佛次郎賞、『ノルゲ』で野間文芸賞などを受賞。ほかに、エッセイ集『からっぽを充たす』『月を見あげて』など著書多数。2020年より仙台文学館館長。
2024年に生誕130周年を迎える江戸川乱歩。その作品は時代を超え多くの表現者を刺激し続け、今や国内のあらゆるものに伝播しています。乱歩からひろがる世界を全4回の連載でご紹介します。
小説を読んでいなくとも名前は知っている。そんな作家は少なくない。江戸川乱歩もその一人だろう。いや、明智小五郎や少年探偵団、怪人二十面相といったキャラクターは有名だし、小学校の図書館でポプラ社の全集を目にしたことのある人、実際に手にとったことのある人は一定数いる――というのが、ここ数年、有名無名のいろいろな方々に乱歩について話を聞いてみて得た印象である。
乱歩にハマるには、それぞれに乱歩への「入り口」のようなものがある。これもまた、幾人もの方々に質問を重ねてきてわかったことだ。
ある世代の人たちは「ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団」とテレビドラマ『少年探偵団』(フジテレビ系、1960~63年)の主題歌を口ずさむ。あるいは「子どもには遅い放送時間帯だったけれど……」と、どこか後ろめたそうに、天知茂が明智小五郎を演じた『江戸川乱歩の美女シリーズ』(テレビ朝日系、1977~85年)への思いを熱く語る。
もちろん「小説が好き」という人も多いのだが、乱歩原作の二次創作から入るパターンが存外多いことにも気づかされる。
たとえば、旧江戸川乱歩邸(現在は改修工事のため休館中)を見学に来る「乱歩好き」の小中高生や大学生にきっかけを聞いてみると、かなりの高確率で『名探偵コナン』と『文豪ストレイドッグス』が挙がる。そうか、今はそうなのか、と思う。何が「そうか」なのかわからないけれど。
青山剛昌氏の『名探偵コナン』は1994年に『少年サンデー』で連載がはじまり、今年で30周年を迎えるモンスター漫画である。私は、今の子どもたちに「連載開始の頃から読んでたんだぜ」と自慢できる世代だが、途中から追いきれなくなったので、ぼろが出ないようにおとなしくしている。
高校生探偵、工藤新一が、ある取引現場を見てしまい、黒ずくめの組織に薬を飲まされて小学1年生の体になる。幼なじみの毛利蘭らに正体を隠すため、自宅の書架にあった『江戸川乱歩全集』と『コナン・ドイル全集』から咄嗟に思いついた名前が「江戸川コナン」だった。天井まで届くような書架と、それを背に「江戸川コナン」を名のるシーンが、なぜか鮮明に眼に焼きついている。
作中では「コナン君」と呼ばれることがほとんどだから、「江戸川」のほうはどこかへ行ってしまった感も否めないが(灰原哀は「江戸川君」と呼んでくれる)、みんなのコナン君も間違いなく「乱歩の子」なのである(ちなみに、乱歩は自分のことを「江戸川」と称しており、電話に出るときなどは「ハイ、江戸川です」と言っていたらしい。乱歩と交流のあった美輪明宏氏にインタビューをしたとき
は「江戸川さん」と呼んでいた)。
『名探偵コナン』では、コナンとその仲間たちが「少年探偵団」を結成しているし、「蘭ねえちゃん」の父親は私立探偵の毛利小五郎だし、乱歩とコナンが出会う機会があってもいいんじゃないか、と思う。乱歩の友人で好敵手だった横溝正史が生みだした金田一耕助の孫が活躍する『金田一37歳の事件簿』(原作:天樹征丸、漫画:さとうふみや)に先を越されてしまったが……(コミックス第11~13巻参照)。とはいえ、テレビアニメ(1996年~)や劇場版アニメ(1997年~)も次々に新作がつくられているのだから、いつかコナン君が乱歩邸に来てくれることを期待したい。
――と、コナン君に気をとられていたら、現代における乱歩の入り口として重要な『文豪ストレイドッグス』(原作:朝霧カフカ、漫画:春河35)にふれる前に紙幅が尽きてしまった。
プロフィール
1981年静岡県生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は近現代日本演劇・文学・文化。著書に『高安月郊研究――明治期京阪演劇の革新者』、編著に『ロスト・イン・パンデミック――失われた演劇と新たな表現の地平』、『小劇場演劇とは何か』、『石牟礼道子と〈古典〉の水脈――他者の声が響く』(共編)ほか。
寄稿者はとしまコミュニティ大学に登録して学んでいる「マナビト生」です。マナビトゼミ担当講師の佐藤壮広氏の監修のもと、毎回テーマに合わせて小説などの文学作品、絵本などの児童書、評論、実用書、エッセイ、科学に関する読み物などさまざまな分野のお薦め本を紹介しています。ぜひ図書館で借りて読んでみてください。
春は出会いと別れの季節である。卒業を題材にした歌や映画などでは、別れの場面や心情が際立って描かれる。しかし、お互いの交流が密であればあるほど、別れは切ない。いつか来る、旅立ち、巣立ち、別れの時にこそ、それまでの交流の意味も実感されるもの。その点、読み終えたくない本、繰り返し読みたい本には、何回でも出会い直すことができる。本は、いつでも交流できる友だちだ。
書名『気流の鳴る音』真木悠介/著 筑摩書房/ちくま学芸文庫 2003年3月
4月、新たな出会いが始まる季節、私も未知のジャンルの本との出会いにワクワクしている。本書は、1977年に社会学者の見田宗介が真木悠介のペンネームで書いた本である。難解だが美しい文体に魅了された。
「根をもつこと、翼をもつこと」という主張に含まれる二律背反、「知者は〈心ある道〉をえらぶ」などのモチーフで3部からなる論考の内容は、手軽に読めそうな文庫本とはいえ、つかめそうでつかみきれないもどかしさも感じる。
著者は世界を歩き、異なる世界に心をむける。そして生きている奇跡を味わい、今この時を生きつくす。混とんとした現代でこそ、改めて読みたい本。【鎌田 和枝(かまた かずえ)】
書名『バベットの晩餐会』イサク・ディーセネン/著 桝田 啓介/訳 筑摩書房 1989年1月
40年近く前、匂い立つような料理の描写で話題になった同名映画の原作です。
ノルウェーの田舎町、敬虔な姉妹の下で家政婦として住む事になったフランス女のバベット。彼女は富くじで1万フランを手に入れます。そして…。100ページにも満たない短編の中に、信仰や幸福、芸術とは等
多くのテーマが寓話的に、ユーモアを感じさせながら語られます。価値観を異にする将軍と村人の交流や芸術との交わりが触媒となり、彼ら自身の中にあった真実や新しい価値観を見いだす事になります。読むたび
に発見がある、不思議な物語です。【古川 依子(ふるかわ よりこ)】
書名『おおきな木』シエル・シルヴァンスタイン/作・絵 篠崎書林 1976年11月
2023年おおきなリンゴの木の下で遊んだ幼子は木の葉で冠を作り、リンゴの実を食べる。幼子が来ることにリンゴの木は喜びを感じる。成長するに連れ、小遣い欲しさにリンゴを全部取っていったり、家を建
てるために木を切ったりし、最後には切り株になってしまう。それでも、リンゴの木は嬉しかった。
自分のすべてを与えて喜びを感じる究極のやさしさは母性愛と同じだと感じるが、自己犠牲もここまで来ると如何なものかと考えてしまう。自分も相手も心地よく感じるやさしさが求められると思う。【浅井 久美子(あさい くみこ)】
「八犬伝」というタイトルだけなら、何処かで聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。さらに、「犬」の字を苗字に持つ八人の少年=八犬士たちが、南総の里見家に結集し、妖術を使う悪人たちと戦うという筋の、江戸時代を代表する伝ロマン奇小説であることも御存知かも知れません。ところが、現在の豊島区にも、この物語の舞台になった場所があることは余り知られていないかも知れません。そこで、この一大長編の魅力をさぐって参りましょう。
『南総里見八犬伝』(以下『八犬伝』と略します)は、江戸時代後期に曲亭馬琴によって書かれた「江戸読本」と呼ばれるジャンルの、日本古典文学を代表する絵入りの小説です。原本は、国会図書館のサイトで馬琴旧蔵の初板初摺本の画像が全ページ公開されています。凝ったデザインのカラー表紙を持ち、印象的な見返しや美しい口絵、挿絵を備えた木版印刷本で、全部で106冊におよび、完結までに28年間が費やされた、岩波文庫では全10冊にも及ぶ大長編小説です。
この『八犬伝』の特徴としては、他の古典文学には例を見ないほど、多くの抄録本や改作を産み出していることが挙げられます。それゆえ、各世代ごとに〈八犬士〉に出会ったメディアは異なっています。
さすがに、講談で語られた時代を記憶されている方は少ないと思いますが、古くは東千代之介主演(1954)や里見浩太朗主演(1959)の東映映画、NHK連続テレビ人形劇『新八犬伝』(1973~75)、深作欣二監督、真田広之・薬師丸ひろ子主演の角川映画(1983)、三代目市川猿之助のスーパー歌舞伎(1993初演)などがあり、その後も、宝塚歌劇団宙組によるバウ・ロマン(2003初演)や、滝沢秀明主演のTBSテレビ放送50周年ドラマ(2006)などがあります。
紙媒体では、多数の児童向き図書が出版されてきました。そのほか、山田風太郎『忍法八犬伝』(1964)から小野裕康『少年八犬伝』(2006)など改作が多数あり、遠崎史朗原作、中島徳博画『アストロ球団』(1972~76)や鳥山明『ドラゴンボール』(1984~95)、比較的原作に忠実な碧也ぴんく『八犬伝』(初出連載1990~2002)、携帯マンガサイトで公開された影日昇『キャバクラ八犬伝』(2009~)、ウェブコミック配信サイトcomicoで連載された沙嶋カタナのBL『咲くは江戸にもその素質』(2014~5)などのコミックスのほかにも、メディアミックス展開をしているゲーム「サクラ大戦」(1996)などは、ミュージカル・アニメ(OVA、テレビ、劇場映画)・ラジオドラマ・ドラマCD・小説・漫画・パチンコ・パチスロにまで及んでいます。
つまり、原作を知らずに影響作に拠って『八犬伝』に触れた方が大多数なのです。それは原作の持つ豊かな魅力を実証している現象だと思います。〈読まれざる文豪〉と呼ばれた馬琴の代表作『八犬伝』受容史の研究課題としても大変に興味深いのですが、今回の講座では今少し学術的に、手工業的な工程を経て作成される美しい板本の画像などを紹介しつつ、初板本の原文に拠ってしか得られない江戸読本の魅力をも紹介していきます。そのためには、著作権など存在しなかった江戸時代の出板システムについても触れることになるはずです。
ちなみに「滝沢+馬琴」は誤りです。馬琴自身が本姓と戯名を続けて使用することはありませんでした。『八犬伝』の作者は「曲亭馬琴」とすべきです。
プロフィール
千葉大学名誉教授。博士(文学)。法政大学国際日本学研究所客員研究員。幕末から明治初期を連続してとらえる視点で、日本十九世紀小説史を研究している。
大河ドラマでも話題の『源氏物語』。学校で、テレビで、そして図書館で、あなたもきっと触れたことがあるはず。全4回の連載で、当時の仏教思想から登場
人物の心情を読み解いていきます。令和6年度も中央図書館で開催予定の古典文学講座「源氏物語と仏教」とあわせてお楽しみください。
『源氏物語』の作者紫式部の思想信仰を考えることは実に興味深いものがあります。ここでは『紫式部日記』から、式部晩年の「道心とたゆたい」を考えてみたいと思います。『日記』に次のようなくだりがあります。
いかに、いまは言忌しはべらじ。人、といふともかくいふとも、ただ阿弥陀仏にたゆみなく、経をならひはべらむ。世のいとはしきことは、すべてつゆばかり心もとまらずなりにてはべれば、聖にならむに、懈怠すべうもはべらず。ただひたみちにそむきても、雲に乗らぬほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる。それに、やすらひはべるなり。
ここには式部の思いが強く表現されています。多少私見を述べますと、「経」は『法華経』です。当時「法華経を信解して阿弥陀の浄土に往生する」という教えが源信の著作『一乗要決』に記されています。式部はそれに基づいて法華経の深遠な教理を、それも阿弥陀仏本人から直接学ぼうとしています。異様な意気込みが感じられます。それから厳しい精進を重ねても、極限における自心の頼みがたさをも直視しています。このようなところに式部の人間洞察の深さが認められます。その結果、最終的には、出家をためらっていると記します。
さて、この後は、次のように続きます。
としもはた、よきほどになりもてまかる。いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経よまず、心もいとどたゆさまさりはべらむものを、心深き人まねのやうにはべれど、いまはただ、かかるかたのことをぞ思ひた
まふる。それ、罪ふかき人は、またかならずしもかなひはべらじ。さきの世知らるることのみ多うはべれば、よろづにつけてぞ悲しくはべる。
ここでは、老いに伴う視力低下で、法華経が読めなくなることと、意欲減退の不安を述べています。このことから、式部が法華経を単に読誦できなくなることを懸念しているのではないことがわかります。つまり、法華経の読誦であれば特定の箇所を読むことになっていますから、耳から学び暗誦することができます。しかし、式部は自身の目で読解することを前提としているようです。恐らく天台大師智顗の著作(法華三大部)やその他の注釈書などにも目を通そうとしているのかもしれません。この段はそうしたことを物語っています。いずれにしましても、法華経を信解することに対する強い思い入れが理解できましょう。
さて、それに続くくだりはさらに興味深い内容となっています。というのは、式部が自身を「罪ふかき人」と自覚、それゆえ「極楽往生」は叶わないのではと記し、さらには、前世の宿業の拙さが知られるだけで悲しいと結んでいるからです。このくだりは、当時流布した源信の教えを参考にすると、式部の晩年の思想信仰が一層明らかになってきます。その点については「その2」で述べたいと思います。
プロフィール
大正大学名誉教授、元文学部長。元仏教文学会代表委員。博士(文学)、専門分野は中古・中世文学と仏教思想の関係。特に源氏物語・宝物集・西行などを研究している。
大正大学オープンカレッジ、朝日カルチャーセンター横浜、茨城県弘道館アカデミー県民大学などの講師をつとめる。
世界を旅してきた筆者ならではの旅のエピソード満載!
本を片手に文化の違いを楽しむ連載エッセイです。
私が旅の醍醐味の一つと感じるのは、カルチャーショックを受けること。「どうして!」と驚くと同時に、「なんで私はこれがおかしいと思うのだろう?」と疑問に思う。
スウェーデンの台所で出会ったのは、トイレブラシだった。どう見てもトイレブラシなものに、洗剤をつけて食器を洗っている。「うわ!汚い!」と思ったけれど、よく考えたら、食器用なのだからトイレでは使わないはずだ。別に汚くはない。スウェーデン人の友人は「僕は日本のトイレでこの食器ブラシを見つけた時にびっくりした」。彼の方がショックは大きかったと思う。ブラシで洗うと、スポンジに比べて、手に泡がつかなくていい感じ。
『イギリスは愉快だ』でも食器洗いについて描かれている。「石鹸水に汚れた食器類をどしどしと突っ込み、スポンジのようなもので撫でるように洗い、水切り台に置いた揚げ籠にのせる。するとやがて水は自然に乾き、食器洗いは完了する」。「水ですすぐ」という工程がなかったそうだ(布で拭き上げることもある)。イギリス以外でも、ヨーロッパのユースホステルではときどき見かけた。
インドのタール砂漠に宿泊した時は、皿を砂で洗った。
洗った後は軽くはたいておしまい。極度に乾燥した砂漠の砂は、クレンザーのように皿をきれいにしてくれた。
世界の食器の洗い方を見ていると、「常識ってなんだろう」と思うようになってきた。水も温度も空気も違うような国で、私の常識なんてあっという間にふきとんでしまう。
旅に身を置くことの楽しさはそこにある。「うわ!変だ!」と思った後、でも「なんでそうするんだろう?」「私はなんでこれが常識と思ってるんだろう?」と思うことで、自分の世界は広がるし、豊かになる。「違う!」ではなく「面白い!」と思うことで見えてくる道があるかもしれない。旅の中でそんな体験をしたことを通じて、異文化の面白がり方を紹介できたらと思います。
プロフィール
駒込在住。現地の空気感あふれるイラストやマンガが特徴。世界のおばちゃんやおじちゃん、家庭料理を描いています。著作『世界のおじちゃん画集』(しろいぶた書房)、『世界家庭料理の旅 おかわり』(イースト・プレス)など多数。
ここ数年、私が読むものといえば漫画ばかりで、本を読む機会は少なくなってしまっています。私が中学生になったときにスマートフォンを手にしてから、読書以外の動画配信サイトや漫画アプリなどの娯楽に夢中になり、本離れが加速してしまいました。生涯の一冊を選ぶために、長い間手をつけていなかった自分の部屋に置いてある本棚を眺めていると、頻繁に図書館に通い、毎日のように本を読んでいた幼い頃の自分の姿を思い出すとともに、非常に懐かしい気持ちになりました。
そんな私の生涯の一冊は『赤毛のアン』です。小学生の頃に叔母に誕生日プレゼントとしてこの本をもらったことをきっかけに、全5冊の赤毛のアンシリーズを本屋さんで購入し、何回も繰り返し読むほどお気に入りの本になりました。
『赤毛のアン』は11歳の赤毛の少女、アン・シャーリーが町や学校で様々な事件を起こしながら、周囲の人々に愛され、少女から母になるまでの様が描かれている物語です。アンは、孤児院で暮らしていた少女で、11歳のときにアヴォンリーのカスバート家に引き取られます。彼女は、想像力豊かでおしゃべり好きな明るい性格です。アンの成長や彼女の周囲の人々との交流が描かれ、アンの冒険や友情、成長が、感動やわくわくした気持ちをもたらしてくれます。
生涯の一冊を執筆するにあたって、この本を読み返したとき、まだアンよりも小さかった私と同じように、今の私も、本を読みながらアンと同じ気持ちになって、何かが起こるたびにハラハラしたりドキドキしたり、涙が出たり、笑ったり、大人に成長した今でも本当に心を揺さぶられる物語だなと感じました。もちろんマリラの内に秘めたアンに対する深い愛情や、ありふれた日常の中にある小さな幸せや楽しみに気づく大切さなど、当時の自分では気づけなかった点も見つけられて、何度読んでも飽きることがない名作だなと改めて思いました。
また5年後、10年後に『赤毛のアン』を読んだときは、どんな感情が湧いてくるのか、未来で本の中のアンと会うのが今から楽しみです。
プロフィール
豊島区在住歴10年以上のJIMO-TOshimaライター。
クリームソーダとカニが好物。食べることとお出かけが趣味。
JIMO-TOshimaとは
街の中にある面白いものやお勧めしたい場所、新しいアクションを豊島区内で生活を営むライターさんの目線を通じて紹介します。
ライターさんならではの感性で豊島区の魅力を発見していただき、国内外にそれを紹介、発信していくことを目的にしています。
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電話番号:03-3983-7861