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図書館通信第73号(2024年秋号)テキスト版

巻頭言

「図書館員だった頃のこと」 豊島区健康部長 木山 弓子(きやま ゆみこ)

 図書館のことを話し出すと止まらなくなる。私の職業人生は、豊島区立中央図書館から始まった。在籍中の8年間、本当にいろいろありすぎて、20年以上経った今も忘れられないことばかり。そのくらい図書館は刺激的で毎日ワクワクするような職場だった。

 今でも当時の先輩職員から言われたとおり、新聞は下から読み(新刊情報が載っているから)、書店の平積みの本をチェック(人気のある本がわかるから)する。近所の図書館や書店で、書架が乱れていれば、つい書架整理をし、旅行に行けば国内外問わずその地域の公共図書館に立ち寄ってしまう。おそらく元図書館員は、図書館を離れても皆私同様の行動をしているのではないかと思う。

 毎週毎週新しい本を棚に並べる。中を眺めつつ、この本を手に取ってくれるであろう人の顔を想像する。カウンターで利用者の方々と交わす会話も楽しかった。ある本を「お互い読んで知っていて」「同じ物語の世界を訪問している」こと、何だか共犯みたいな関係を、子どもからお年寄りまで、様々な方々と結ぶことが出来る。レファレンスカウンターでは、お客さんと一緒になって答えを探し、見つかれば一緒に喜ぶ。児童担当だったので「おはなしばんざい」の読み聞かせで、子どもたちに「読むの上手になったね」と言われたこともあった。当時は「本と人を結ぶ」という目的のためなら、大抵のことは許された(と私は思っていた)ので、目的達成のためにはやるべき、と思ったことは大体やらせてもらえた(但し予算の範囲内で)。本当に幸せな仕事だった。

 「図書館員は本が好きなだけではダメ、人が好きでないと!」と言われる。でも図書館にいると、自然と人も好きになる。本を開けば、その中に息づく人々を感じ、読み進めれば人間が愛おしいと思うようになるのである。時間的にも空間的にも現実には出会うことのない人たちと図書館では出会える、本の中で。

 区の施設の中で一番贅沢な場所です。どうぞご利用を。

 

プロフィール

1992年豊島区入庁。中央図書館6年雑司が谷図書館2年の計8年児童サービス担当として勤務。2024年より現職。

エッセイの愉しみ 全8回

第7回「手書きとワープロ原稿」作家(仙台文学館館長)佐伯 一麦(さえき かずみ)

 仙台文学館のエッセイ講座では、手書きの作品の提出にも応じており、主に年配者から味わいのある原稿が寄せられる。

 手書きの原稿のことを生原稿と呼び、文学館の展示の中心は作家たちのそれである。生原稿を読むと、消しや加筆の過程が窺えて、文章が創り出されていく過程が手にとるように伝わってくる。さらに筆跡から、筆者の息づかい、その時の精神状態、健康状態まで触知できるように思う。

 難点は、活字になったときの文字面が想像しにくいことだろうか。活字に近い状態で印字されたワープロ原稿に比べて、原稿用紙のマス目に手書きされた原稿は、慣れていない目には、いくぶん稚拙に見えるかもしれない。悪筆であればなおのこと。

 かつては、文章であれ職人仕事であれ、修行には十年かかると言われた。文章の場合のそれは、手書きの文字から活字になった状態が想像できるようになるまで、十年かかるという意味合いも含まれていたようだ。生原稿を読んで、これは活字が立っている文章だ、と評するベテラン編集者もいた。

 その編集者によれば、ワープロやパソコンの文書作成ソフトで書かれた原稿は、活字になったイメージがつかみやすい半面、執筆の過程の痕跡が消えてしまう。しかし、そうした原稿を読む経験を積み重ねるうちに、手書きとはちがった見え方を感じるようになったという。宮本武蔵が、刀で向かい合う時〈観の目つよく、見の目よはく見るべし〉と言っているが、ワープロ原稿の熟読は、この修練に似ており、近視眼で見るのではなく、心の眼で作品が観れるのではないか、と。

 その特質を活かすために、私は、書き上がって印字した原稿を並べて、絵を鑑賞するように眺めてみることを勧めている。そうすると、文章の並びの中で、やや薄い(弱い)ところと、しっかりと密に描かれているところが観えてきて、さらに単語や助詞の重なりなどにも自ずと気が付くようになる。

 最後に一言。ワープロ原稿を原稿用紙に印字するのだけは止めたほうがいいです。

 

プロフィール

1959年仙台市生まれ。首都圏で電気工などの職業に就きながら、海燕新人賞を受賞してデビュー。『ア・ルース・ボーイ』で三島由紀夫賞を受賞した後、帰郷して作家活動に専念する。『鉄塔家族』で大佛次郎賞、『ノルゲ』で野間文芸賞などを受賞。ほかに、エッセイ集『からっぽを充たす』『月を見あげて』など著書多数。2020年より仙台文学館館長。

後藤先生の文学講座「乱歩からひろがる世界」

2024年に生誕130周年を迎える江戸川乱歩。その作品は時代を超え多くの表現者を刺激し続け、今や国内のあらゆるものに伝播しています。乱歩からひろがる世界を全4回の連載でご紹介します。

第3回「乱歩とロックの邂逅」立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター特定課題研究員 後藤 隆基(ごとう りゅうき)

 「人間椅子」という不思議な名前のバンドを知ったのはS県G市にある高校に通っていた時分だった。

 当時所属していた音楽部(「軽音楽部」とはいわなかった)では「HR / H M」と括られるジャンルの洋楽をコピーすることが多かった。ちょうど1年生のときの3年生がそうした趣味で、妙な先輩たちだったが、まんまと影響を受けてしまったのが数人いた。

 Led Zeppelin、Deep Purple、Black Sabbath、Night Ranger、Michael Schenker Group、IRON MAIDEN、Pink Floyd、VAN HALEN、Guns N' Roses、MR.BIG、Dream Theater…… 等々。いまパッと頭に浮かぶバンド名を書き連ねるだけで、言い知れぬ郷愁に駆られる。

 すっかり洋楽漬けの高校生活を送っていたある日、地元のN市の商店街の中古レコード屋でたまたま耳にしたのが、人間椅子の「夜叉ヶ池」だった。2年生になっていたとおもう。知らない洋楽だと思い、バンド名を店員に尋ねたはずだ。日本のハードロックに聴かず嫌いの苦手意識を持っていた高校生は驚いたのだろう。その日、ベストアルバム『ペテン師と空気男〜人間椅子傑作選〜』を買った。

 江戸川乱歩とのつながりはまだわかっていなかった。小学生のとき、ご多分に漏れず図書館の少年探偵団シリーズを一通り読んだが、そこから先には進まなかった。人間椅子のほうは他のバンドメンバーの共感を得られず、コピーしなかった。が、奇妙なタイトルや歌詞とカッコいい音楽は耳に残りつづけた。

 R大学に入って日本文学にふれるようになり、乱歩に再会した。ここで、バンドの「人間椅子」と小説の「人間椅子」がようやくつながった。

 全編乱歩ともいうべきコンセプト・アルバム『怪人二十面相』を手に入れ、小説を読みながら、人間椅子の音楽を聴きながら、乱歩という世界に入っていった。歌詞の世界が乱歩の小説に即しているわけではない。しかし、小説を解釈したうえで、新たな音と言葉によって再構築される楽曲、演奏は、乱歩がいかに多彩なイメージをかき立てるかを表現して見事であった――というのは、後年になって言語化した感想だ。2019年リリースの『新青年』も名盤である。

 2022年、人間椅子のメンバーである和嶋慎治氏にお話を伺う機会を得た。乱歩の小説の、とくに初期作品に登場するマイノリティな青年の精神を楽曲化する和嶋氏と、猟奇的な部分を直截的に描く鈴木研一氏の組み合わせが、バンドとしての表現の幅をひろげる。和嶋氏の「乱歩はカウンターカルチャーでありながら、同時にポップ」という見方も大いに合点がいった。両極端ともいえる振れ幅を一つ身に同居させていることの魅力。乱歩的でありながら、乱歩を離れても表現として成立する。乱歩とハードロックの融合から、そんな風景がみえてきた。

 

プロフィール

1981年静岡県生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は近現代日本演劇・文学・文化。著書に『高安月郊研究——明治期京阪演劇の革新者』、『乱歩を探して』、編著に『ロスト・イン・パンデミック——失われた演劇と新たな表現の地平』、『小劇場演劇とは何か』、『石牟礼道子と〈古典〉の水脈——他者の声が響く』(共編)ほか

 

この本カフェ

 寄稿者はとしまコミュニティ大学に登録して学んでいる「マナビト生」です。マナビトゼミ担当講師の佐藤壮広氏の監修のもと、毎回テーマに合わせて小説などの文学作品、絵本などの児童書、評論、実用書、エッセイ、科学に関する読み物などさまざまな分野のお薦め本を紹介しています。ぜひ図書館で借りて読んでみてください。

37杯目「回遊」

 回遊⿂として知られるマグロは、泳ぎ続けなければ窒息死してしまう。回遊は“⽣存”に直結したことなのだ。⼈間は、たとえ⾜腰が⽴たなくなっても、本の海、本の森を回遊し、散策することができる。そこでは、⽣きる⼒を与えてくれることばとの出会いもある。

 

書名『ウナギ 大回遊の謎』塚本 勝巳/著 PHP研究所 2012年6月

 私たちが好んで食べる魚はいろいろだ。アユは塩焼きが美味しいし、ウナギはかば焼きに尽きる。寿司ならばマグロの大トロが一番人気。焼いた塩鮭は典型的な和朝食のメニューだ。

 実はいま挙げた魚たちには「共通項」がある。どの魚も回遊魚なのだ。その中でも特に生態が謎なのはウナギだ。ウナギはいったいどこで産卵するのか、またどのように成長するのか、長い間謎だった。謎に挑み続けた科学者の軌跡を余すところなく綴ったのが本書である。 【 渡邊 英信( わたなべ ひでのぶ)】

 

書名『 ヒトの幸福とはなにか』養老 孟司/著 筑摩書房 2023年11月

 人は自分、家族、社会の幸福を考えながら人生という旅を「回遊」している。

 養老孟司は、本書で「巨木を見ていると自分の人生なんてどうゆうこともないと思う。」、「巨木を見ながら過去に思いを馳せ、未来を想う。」と述べている。

 日々の生活も大切な学びの場ではあるが、著者のような大きな視点が大事だ。広く国内外のその土地の人、動物、生き物、植物等に触れて、旅の「回遊」を増やそう。 【 中村 伸子( なかむら のぶこ)】

 

書名『 ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川文庫)東野 圭吾/著 KADOKAWA 2014年11月

 深夜、3人が罪を犯して逃げ込んだ無人のあばらや。その郵便口に突然誰かが封筒を投入した。それは過去からの・・・だった。それを通して過去と現在がつながっていく、一夜のファンタジーミステリー。歌手を諦めきれない青年や親に夜逃げを強いられる少年など、5章からなる悩める人たち。一本の糸が網目状となって加速するラストスパート、ラストランが素晴らしい。時空を超えた雑貨屋主人と孤児院創始者の絆。心の温もりを感じさせられる美しい物語です。 【 酒井 一夫( さかい かずお)】

 

髙木先生の古典文学講座「南総里見八犬伝の世界」

 『八犬伝』は文字通り「犬」の字を苗字に持つ八人の少年=八犬士たちが活躍する物語ですが、何故「犬」にしたのでしょうか。また、主人公が1人ではなく、里見家に仕えることになる8 人の群像劇として構想されたのは何故でしょうか。今回は『八犬伝』の構想について見て参りましょう。

第3回「八犬伝の構想」千葉大学名誉教授 髙木 元(たかぎ げん)

 『南総里見八犬伝』(以下『八犬伝』)は、一読三嘆、読み始めると理外の仙境に遊ぶことができる血湧き肉躍る冒険小説です。自然主義以降の日本近代文学が、辛気くさい実人生に向き合うことを志向したために、この物語の魅力が忘れ去られてしまった感があります。物語の筋は勧善懲悪や因果応報という倫理的原理に貫かれていて分かりやすいのですが、文章は近代小説では味わえない和漢の古典を縦横に踏まえた蘊蓄が込められており、そればかりではなく凝った修辞に満ちています。また、思わず声に出して読みたくなる七五調の和漢混淆文体も、音読の楽しさを思い出させてくれます。

 ところで、『八犬伝』は何故「煩悩の狗」とも「犬畜生」とも謂われて、蔑まれてきた「犬」を姓に持つ主人公たちを設定したのでしょうか。文化5年刊の読本に見られる『八犬伝』の予告広告には、『里見八犬士異伝』と共に『尼子九牛一毛伝』及び『七馬士伝』とが挙げられています。これらの8人の「犬」、人の「牛」、7 人の「馬」を名字に持つ勇士たちの名は、当時普及していた『書言字考節用集』という国語辞典(用語集)に付されている「名数(事物を数字で括った呼称)一覧」に出ていて、「八」の項には「舜ノ八元」や「楠ノ八臣」などと一緒に「里見八犬士」として「犬山道節。犬塚信濃。犬田豊後。犬坂上野。犬飼源八。犬川荘助。犬江親兵衛。犬村大学」の名が記されています。この資料を利用し、群像劇として8人の犬士たちの列伝を描く構想を得たものと考えられます。

 愛読者がファンレターに記した「犬を採用した理由」を問う質問の返信として、馬琴は「牛より犬の方、人に近く愛敬も有之候故」と述べています。しかし、実は、より深い理由があったものと考えられます。それは、発端部である所謂「伏姫物語」に伝奇主題を用意していたからです。

 多くの説話や伝説では、英雄の誕生の証拠として異類婚姻譚が語られています。これを踏まえて、八犬士誕生に際して犬と人との聖婚譚の面影を用意したのです。中国では「槃瓠説話」と呼ばれる帝の娘と槃瓠(犬)が結婚する話が『捜神記』や『後漢書』に見えており、馬琴も一部を『八犬伝』に引用して典拠を明らかにしています。また、日本にも「竹篦太郎」という話が物語や芸能として遺されています。『八犬伝』に先行する読本として、栗杖亭鬼卵作『犬猫怪話竹箆太郎』(文化7)がありますが、こちらは敵討物の怪異譚に過ぎません。

 ここで注意すべきは、倫理道徳に潔癖な馬琴が、敵将の首を取った八房(犬)に伴われて富山に籠もった伏姫に妊娠した徴候が見られたのは「物類相感」の結果であり、「人畜異類の境界」を越えた「異類婚姻」ではないとした点です。

 こうして、伏姫は自らの潔白を証すために「肚を裂」、八犬士が持つことになる八つの珠を中空に飛散させることになるのです。

 

プロフィール

千葉大学名誉教授。博士(文学)。法政大学国際日本学研究所客員研究員。幕末から明治初期を連続してとらえる視点で、日本十九世紀小説史を研究している。

大場先生の古典文学講座「源氏物語 登場人物の道心と祈り」

大河ドラマでも話題の『源氏物語』。学校で、テレビで、そして図書館で、あなたもきっと触れたことがあるはず。全4回の連載で、当時の仏教思想から登場人物の心情を読み解いていきます。

第3回「明石の入道夫妻の道心」 大正大学名誉教授 大場 朗(おおば あきら)

 今回は「明石の君物語」に登場する明石の入道と明石の尼夫妻の人物造型と仏教故事について私見を述べてみたい。ごく簡単に二人の人物を紹介すると、入道は桐壺更衣の父の甥で、父は大臣。京官(近衛中将)を捨てて播磨守となる。一族の再興を祈願し、源氏の須磨流謫を住吉の霊験と理解して、子である明石の君を源氏と結婚させる。二人に明石の姫君が誕生して、君と姫君たちを上京させた後、独り明石に留まり、春宮と姫君の間に若宮が出産したと聞くと、深山に入り、世俗との交流を断つ。妻の尼君は中務の宮の孫。源氏の須磨退去を機会に娘を源氏と縁づけようとする入道に強く反対する。娘の明石の君のよき助言者で、日頃から仏道修行を重ね、世人から「めざましき女の宿世・幸ひ人」と言われる、となる。

 さて、この夫妻の人物造型には興味深いものがある。というのは、二人の造型には悉達太子(釈迦)とその妻耶輸陀羅の仏教故事の影響が確認できるからである。必要な範囲で悉達太子と耶輸陀羅の夫妻の説明をすると、二人は過去世おいて仏に供養しながら共に来世に夫婦として生まれることを願って仏道修行をした。その功徳によって、二人は次の世に悉達太子・耶輸陀羅となって生まれ夫婦となった。一子が生まれ羅睺羅と名付けたが、悉達太子は国城妻子を始め一切を捨てて出家、修行に専念した。のち、子である羅睺羅を出家させ弟子にしたいという。耶輸陀羅は大いに悲しみ、抵抗したが、最終的には受け入れて、悟りを開いた夫に従い、自身も出家し、修行を重ね大福徳の人となった、となる。有名な話で、平安時代の貴族の多くは知っていた仏教故事であった。さて、この両夫婦の話を辿ると、次の点で重なるのである。すなわち、「夫の考えに反対するが、子を夫に預け、その不安・悲しみを克服して、夫に従う。その後仏道修行を重ね、大福徳の人となる」と言う点である。例えば、「大福徳の人となる」は、「目ざましき女の宿世・幸い人」(明石の尼)、「大福徳を具する」(耶輸陀羅)となる。また、両者ともに、子を手放す悲しみ・不安を克服して、夫の指示に従うという点も共通している。

 恐らく作者は、平安貴族が知っていた悉達太子と耶輸陀羅の仏教故事を念頭に置きながら、入道夫妻の人物造型を考えたものと推察される。ただ、ここで注目したいのは、釈迦も明石の入道も子を捨て妻を捨て仏道修行に邁進したという点だ。ここには「この世の恩愛の絆を断ち切って、真実の世界、悟りの境地に至ったならば、それこそが真実に恩愛の情に報いることになる」(『清信士度人経』)という仏の教えがあると言うことだ。どうも作者は、明石の入道(尼も含む)にこの教えを実践させているように思われる。それにしても、この教えは、なんと厳しいことばであろうか。愛情とは何かと言うことを考えさせられる。

 

プロフィール

大正大学名誉教授、元文学部長。元仏教文学会代表委員。博士(文学)、専門分野は中古・中世文学と仏教思想の関係。特に源氏物語・宝物集・西行などを研究している。大正大学オープンカレッジ、朝日カルチャーセンター横浜、茨城県弘道館アカデミー県民大学などの講師をつとめる。

本と旅する世界交流紀行

世界を旅してきた筆者ならではの旅のエピソード満載!
本を片手に文化の違いを楽しむ連載エッセイです。

第3回「世界の包丁」引いてダメなら押してみて、押してダメならぶっ叩いて
食を旅するイラストレーター/マンガ家 織田 博子(おだ ひろこ)

 外国の方が講師をしている料理教室によく行く。

 日本人の参加者の声で一番多いのが「外国の包丁は切れない」なのだそうだ。

 マンガの資料として長年愛用する『武器』(ダイヤグラムグループ編)を読むと、西洋の武器の発想には「重さで叩き割る」があると感じる。刃が厚く重い。「力!」って感じがある。一方で日本刀は刃が薄く比較的軽い。スッと引くことで切ることができる。

 この「叩き割る」と「引いて切る」発想の違いが、身近な刃物のナイフと包丁の違いにもある気がする。

 『日本の刃物 研ぎの技法』(誠文堂新光社)(こういう本があるところにも、切れ味にこだわる日本を感じる)では、日本の料理は「切ったものの断面の美しさを重視している」とある。「叩き割る」と「引いて切る」。文化が違えば発想が違う。ナイフと包丁は、似たものに見えても全然違う。

 南米・ベネズエラ料理を教わった時にびっくりしたのは、まな板なしで、ナイフのみで玉ねぎのみじん切りをしていたことだった。鍋の上で切れば、添えている手を放すだけで具材が鍋に入るのが嬉しい。「まな板がなくてもいいんだ!」と、料理の可能性がぐっと広がるのを感じた。南アジア・バングラデシュでは床に据え置きの包丁に出会い、器用にみじん切りをして料理をする様子に感動した。

 いろんな国でナイフに出会った。東アジア・モンゴルのガタガタ揺れる車の中で、ナイフで羊肉を切り分けた友達の姿はとてもかっこよかった。ロシアのシベリア鉄道で、黒パンと太いソーセージとナイフでパパッと朝ごはんを作ってくれたロシア人ママのことも思い出す。焼いた豚の脛肉にナイフがぶっ刺さって出てきたドイツのレストランも。

 引いてダメなら押してみよう、押してダメなら叩き切ってみよう。異文化を体験することは、試行錯誤を繰り返して自分の引き出しを増やしていく体験になる。

 

プロフィール
駒込在住。現地の空気感あふれるイラストやマンガが特徴。世界のおばちゃんやおじちゃん、家庭料理を描いています。著作『世界のおじちゃん画集』(しろいぶた書房)、『世界家庭料理の旅 おかわり』(イースト・プレス)など多数。

生涯の一冊『幸運は大胆な人が好き 私らしい夢の見つけ方・育て方 FORTUNE FAVORS THE BOLD』     miku/未来/著 KADOKAWA 2021年

「思い描く道へ進むことを支えてくれた、お守りの一冊」JIMO-TOshimaライター  西田 千夏(にしだ ちか)

 “このままでいいのか?私が力を発揮出来る場所はここでは無いかもしれない。”

 今や好きなことを仕事に、私だから出来ることを思い切り楽しんでいますが、常にモヤモヤしながら悩み続けていた前職の頃。思い切って大きく舵を切りたい。私だから出来ることをやりたい。でもそれってなんだろう?来る日も来る日も模索していました。

 著者のmikuさんが、もがきながらも軸を持って1つ1つ選んで、決断して、手放して、掴んで。その行動や自分を信じる強さに力を貰い、何かを掴みたいなら手放す勇気も必要。そんな大切なメッセージもこの本から貰い、その後の自身の挑戦に繋がります。まさにロールモデルなmikuさんの考え方に共感し支えられ、色々なことを考えるきっかけや、勇気を貰いました。本棚にあるどの本よりも、何度も繰り返し開いて何度も読んだ、お守りのような1冊です。

 夢への向き合い方も、恋愛観も。mikuさんの考え方に触れて視野が広がり、私の見たい景色や夢も広がりました。子どもの頃のように、やりたいことや夢を言葉にして発信することもいつしか臆していましたが、この本に励まされながら、気づけば少しずつ出来るようになりました。

 もし、今していることや取り巻く環境、描いている夢に霧がかかりそうになったら、是非この本のタイトルを思い出してみてください。きっと、どこかのページの言葉や一文が、背中を押してくれるはずです。いつの日か私もmikuさんのように、夢を追っている過程や経験を、言葉・文章にして、みなさまにお届けできたらいいなと思っています。

プロフィール

小・中学校で司書をしながら、nico letter というコーヒーブランドを持ち、各地でコーヒーを提供。学校図書館やカフェ営業を通して笑顔溢れる居場所づくりを目指す。

JIMO-TOshimaとは
街の中にある面白いものやお勧めしたい場所、新しいアクションを豊島区内で生活を営むライターさんの目線を通じて紹介します。
ライターさんならではの感性で豊島区の魅力を発見していただき、国内外にそれを紹介、発信していくことを目的にしています。

生涯の一冊『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』川内 有緒/著 集英社インターナショナル 2021年

「いっしょに楽しむ世界へ」長﨑 大晴(ながさき たいせい)

 この本と出会ったのは、まだ多くの人がマスクをしていた時期でした。今まで月に何度も足を運んでいた博物館や美術館には予約をしなければ行けなくなり、ぼく自身、息苦しさを感じていました。そんなとき、書店に並んでいた『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』というタイトルの本が目に入りました。驚きとともに大きな疑問が浮かんだのです。目の見えない人が、一体どうやってアートを「見る」のだろうか。

 ぼくたちが暮らしているこの社会は、目で見て分かりやすい社会になっています。時間を確認するとき、友達と待ち合わせをするとき、お店で買い物をするとき、多くの人は目で見て判断しています。では、目が見えなかったら? ぼくは背中をドンッと押されたような気がして、この本を母に買ってもらい一気に読み進めました。

 「目の見えない白鳥さん」がアートを「見る」方法は、大きく2つ。

 1つは触ること、もう1つは対話することです。

 現在、数は少ないものの、触れる展示が増えています。大きさや形を触って確かめることで、アートを楽しむことができます。触ることのできない展示は、同行者に、どのような作品か、どのように感じるかを話してもらうことで、対話とアートをいっしょに楽しむのです。

 むやみに触ってはいけない、近くでしゃべってはいけない、といわれている時期に、ぼくはこの本を通して、触ることと話すことの大切さに気付きました。そして、ぼくも何かサポートすることはできないかと考えるようになりました。

 そこで、高田馬場にある日本点字図書館のワークショップに毎月参加したり、盲導犬や車椅子、パラスポーツの体験をしたりするなど、知識と体験を積み重ねて「調べる学習」としてもまとめることができました。

 色々なことが指一本で調べられる今だからこそ、ぼくは提案します。

 触ってみよう、感じたことを話してみよう。そして、いっしょに楽しもう。

 

プロフィール

「調べる学習コンクールin としま」6年連続入賞、2023 年度「見えない人 見えにくい人 見える人 いっしょに生きていく」で豊島区長賞を受賞。また、“社会を明るくする運動”「作文コンテスト」等のコンクールでも数多く受賞。豊島区立豊成小学校卒業

 

図書館通信

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電話番号:03-3983-7861

更新日:2024年10月2日