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蓮華山金剛院仏性寺山門

金剛院の山門

<豊島区指定有形文化財>

金剛院は、大永2年(1522)に聖弁和尚により開創された真言宗豊山派の寺院。奈良県桜井市の長谷寺を本寺とし、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊像を本尊とする。もとは観音堂(長崎3-28-1)にあったが、宝永6年(1709)に現位置に移転した。

山門は、元禄年間(1688~1703)の火災で焼失した寺院の再建復興事業の一貫として、新たに移転した現所在地(長崎神社東隣)に建立された。再建は、15世・聖誉和尚によって進められたが、本堂・大師堂・庫裡・鐘楼などの主要建物が優先されたために山門の建設は遅れ、安永9年(1780)、19世・宥憲和尚によって完成した。

当初は素木造りであったと考えられるが、宥憲和尚が天明年間(1781~1789)の火災で江戸市中の罹災者を数多く寺に収容して助けた功績が認められ、10代将軍徳川家治から朱塗りとすることを許され、天明5年(1785)頃までには、現在の朱塗りに改修されていたと思われる。

創建時の山門は屋根を瓦葺きとしていたが、幕末に茅葺きに改修し、さらに昭和5年(1930)には現状の瓦棒銅板葺きに改めている。両翼の袖塀は、創建時は土壁下見板塀としていたが、その後透かし下見板塀に改修され、さらに昭和29年(1954)から同30年にかけての本堂建て替えに伴う境内入口廻りの整備工事で、現状の大谷石積塀に改められている。

建築様式は、本柱の後方にのみ控柱を設け、棟は本柱の中心より後にずらし、本柱2本、控柱2本、計4本の柱で屋根を支える薬医門様式で、装飾彫刻はどれも彫りが深く、曲線の流れに張りがあり、末端にまで力が入っている。梁や肘木の繰形は、江戸期のものとしては素朴で傾斜角がゆるやかである。屋根側面の蕪懸魚も素朴であるが形が整っている。装飾全体が素朴ではあるが優れており、区内にある根生院や重林寺の薬医門よりも古いと考えられる。山門の傷みが見られたため、平成8年にその保存修復および左右両袖塀の復元工事が実施された。

お問い合わせ

庶務課文化財グループ

電話番号:03-3981-1190

更新日:2022年10月25日