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旧鈴木家住宅

旧鈴木家住宅

<豊島区指定有形文化財>

建築主は、東京大学名誉教授で、著名なフランス文学者である鈴木信太郎(1895-1970)で、大正7年(1918)に、米穀問屋を営んでいた父政次郎ら家族とともに現在の地に移り住んだ。信太郎の亡き後、住まいは何度かの増改築を経ながら、長男で東京大学名誉教授の鈴木成文(1927-2010)が住居として使用してきた。

「書斎棟」は、大正10年(1921)に新築された木造の母屋に、昭和3年(1928)に増築されたものである。昭和6年(1931)に2階に子供部屋を増築したが、空襲で焼失した。現在の2階は昭和31年(1956)に新たに増築されたものである。外観は、南面の、向かって右側の3箇所の窓は、両開き窓の上部になだらかな曲線が施されており、アール・デコ調ではあるが瓦の部分が日本的な雰囲気を持ち、この建物独特の装飾が見られる。これらを含め南面の5箇所の窓すべてに防火シャッターが備えられているなど、当時の防火設備としては充実したものとなっている。また、北東部分には二層の蔵が設けられており家財が収納されていた。なお、この「書斎棟」については、工事の経緯を示す文書が豊富に残されており、これらを分析することにより、今後より明確に建築の特徴を知ることができる。

「茶の間・ホール棟」は、終戦直後の昭和21年(1946)、建築制限令下に建てられたものであり、信太郎の妻の実家を通じて木材は調達できたが、仕上げまでは手が回らなかったという。この時期の都市部の建物は、高度経済成長期には大半が建て替えられていると考えられており、希少価値の高い建築遺構ともいえる。

「座敷棟」は、信太郎の母を呼び寄せるために、母が長年住み慣れていた埼玉県北葛飾郡富多村吉妻(現埼玉県春日部市)の屋敷の書院部分を、昭和23年(1948)に移築したものである。伝統的な日本家屋であり、明治20年代の建築とされるが、南の縁側部分の天井に和釘がところどころ見られ、建築年代を裏付けるものといえる。

以上のように、旧鈴木家住宅は、大正7年(1918)に信太郎が父政次郎とこの地に移って以来、時代の変化、家族の変化、戦争の被害による変化等、様々な外的要因、内的要因によって変遷を遂げつつ、今日まで住み続けられてきた。建物自体の文化財的な価値もさることながら、建築当時からどのように住み継がれてきたかの痕跡を追える住宅は希有で、豊島区内には類例がほとんどない。また、我が国の近・現代に名を残す著名な学者の住まいとして、近代文化史研究にとっても貴重なものということができるうえ、こうした住まいや人物の存在は、豊島区の地域史研究にとっても貴重な資料ということができる。このような意味からも豊島区にとって特に重要な文化財であると言える。

 

平成30年(2018)3月より、鈴木信太郎記念館として公開。詳細は鈴木信太郎記念館ホームページを参照。

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庶務課文化財グループ

電話番号:03-3981-1190

更新日:2022年10月25日